救いの予定
(Q)まず、救いのチャンスを得るプロセスについてですが、ローマ10:9-21特に13節「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」とその後に続く「宣べ伝える人」の役割により、救いのチャンスが与えられます。つまり、人が主の御名を呼び求める時に、伝道師/宣教師なり神のことば/キリスト(特別啓示)を携えた人が、主から求めている人の所に送られると、解しています。ではどうしたら人が主の御名を呼び求める「気に」なるかと言えば、ローマ1:19,20および2:14,15にあるように被造物と良心を通して(一般啓示)、創造主と創造主に対する罪を知り、その解決として結果的に主の御名を呼び求めることが「可能です」。つまり、一般啓示と特別啓示により人類には「不公平」などとは言い逃れができない状況があるのではないでしょうか。これは、本来人は罪人だから天国へ行けなくて当然とすべきであるといった、神の「義」の側面が示されている、「公平」への理解に対し(貴回答がこれに当たります)、神の「愛」の側面による、「公平」への理解であると思っています。ただし、これはキリストの贖いによって全ての人が福音を聞かなくても救われ得るとする、いわゆる「Universalism/万人救済主義」でないことはもちろんであります。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」とのみことばは、救いのためには「一般啓示」→「特別啓示」のプロセスを経るが、「特別啓示」による罪の告白と悔い改めが必要不可欠であることは言うまでもないことを前提にしているからです。ただし「胎児や幼子」の場合については、聖書は沈黙しているようなので、私にはわかりません。でも少なくとも言えることは、このような「公平/不公平」の質問を投げかける未信者の人はすでに、救いのチャンスに触れている所に置かれていることは疑いありませんので、ヘブル3:15「きょう、もし御声を聞くならば、・・・心をかたくなにしてはならない。」より、「ほかでもない、聞いている『あなた』の救い」に関する聖書の語りかけに戻らなければならないと考えます。いずれにしても、福音に触れることのない多くの人々がいた地域/時代についての理解は、上述の「一般啓示」を受け入れなか
った(つまり主の御名を呼び求めなかった)人とその時代であったと言うしかないのではないでしょうか。
(A)まったくその通りであると思います。主の御名を呼び求める人がいれば、神がその人の所に伝道者を送って下さるというのは、本当であると思います。ただし、それでは、呼び求める行為は、人間の内から出ることなのか、それとも、神の側の選びによるのか、という問題があります。もし、生まれながらの人間が神を呼び求める力があるとすれば、聖書にある様々な箇所と調和させることはできません。例えば、エペソ2・1では「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった。」と述べられています。死者である、ということは、自分から救いを叫び求めることすらできない、ということではないでしょうか。また、パウロはネアポリスで集まった女たちに話をしたが、主は、その中でルデヤの心だけを開きました。神は、生まれる前から、ヤコブを愛して、エサウを憎みました。「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』」(ローマ9・11−13)したがって、「事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。・・・神はみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」(16−18)また、神はアダムとエバが堕落する以前からすでにすべての人を選びか遺棄かのどちらかに予定しておられるとパウロは述べています。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1・4ー5)イエス・キリスト御自身が、このように述べておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15・16)
このようなことから考えると、けっして神は人間を平等には造っておられないということが判ります。つまり、ある者を愛して、ある者を憎むということが神の側において行われているのです。であれば、神は、人間を責める権利はないのではないか、という疑問がわいてきますが、それは、被造物として発してはいけない質問なのです。つまり、「すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。陶器を造る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも造る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9・19−21)
例えば、どうして神は、同じようにキリストを裏切ったペテロを愛して彼を救い、ユダを憎んで彼を滅ぼされたのでしょうか。それに対して、神は「私がそのように造ったからだ。ピリオド。」としかお答えにならないのです。「なぜ、エサウは滅んで、ヤコブは救われたのか、ヤコブはエサウよりもすぐれて信仰的だったからか。」それに対して、神は「私は彼らが生まれる前から、ヤコブを愛してエサウを憎んだ」と仰るだけです。それは、あくまでも神の問題であって、人間の問題ではありません。つまり、神秘の領域に入るのです。今日でも、教会に行って最後まで信仰を貫く人もいれば、教会から離れて最後まで信仰を回復しない人もいます。救いをすぐに受け入れて、実を結ぶ人もいれば、拒否したまま死ぬ人もいます。それは、神がそのようにその人を造られたからなのです。
それでは、「神は罪の創造者なのか、人が罪を犯すのは神がそのように仕向けたからか。」という疑問がありますが、神はけっして人を罪に誘うことも、人に罪を強制することもありません。人が罪を犯すのは、もっぱら自発的なのです。ですから、人は地獄に行っても言い逃れできないのです。無罪の人が地獄に行くならば、神に不公平はありますが、人はもっぱら自分の犯した罪のために地獄に行くのです。だれも自分を無罪だと言える人はいません。「義人はいない。ひとりもいない。・・・善を行う者はいない。ひとりもいない。」(ローマ3・10ー12)
神は御自身の栄光を究極的に2種類の方法で現されます。それは、「キリストを信じた人によい実を結ばせることによって」と「キリストを拒んで地獄に行って、そこで神の裁きの正しさを現すことによって」。どちらにしても、万人は最終的に神の栄光を現す運命なのです。この神の目的のために全世界は動き、その目標に向かってひたすらに前進しています。神の勝利はあらかじめ神によって定められているのです。ですから、これは、結果の判っている物語なのです。あたかも水戸黄門のように。全世界は、福音の伝道によって弟子化されていきます。全世界が神の律法に服従するようになります。もちろん「完全に」ではありませんが。(完全に神の律法が守られるようになるのは、キリストの再臨があって新天新地が来る時です。)
つまり、神が超越者であるということは、神は全てのことをあらかじめ定める権利があるということなのです。「予定」は超越の一つの側面なのです。なぜならば、神は絶対者であるのでけっして、勝つか負けるか判らない戦いはしないからです。あらゆる事柄の決定者である以上、すでに結末を定めておられます。つまり、最終的にご自分の本来の姿=宇宙の「主権者」の姿=を万物に対して明らかにされるのです。
因みに、最終的結末はキリストの再臨によって達成されるので、現在教会はそれを祈って待っているだけでいいのだ、とする意見がありますが、これは誤りです。もしそうならば、なぜクリスチャンはこの地上に置かれているのでしょうか。ただ伝道するためでしょうか。
キリストは使徒たちに「全世界に行って、すべての国民を弟子としなさい。バプテスマを授け、私が命じたすべてのことを守るように教えなさい。」と命令しました。「私が命じたすべてのことを守るように教えなさい。」という点に注目してください。キリストの命令とは何でしょうか。それは、旧新約聖書全体の教えではないでしょうか(もしそうではないというならば、それはすでにキリスト教ではありません「聖書のある箇所はキリストの命令で、また、ある箇所はキリストの命令ではない」と言うことは、結局 I am the Bible. と言うことに等しいのです)。
聖書の命令を守る民を起こすことが使徒に与えられた使命であり、これこそが、歴史の目的なのです。全世界が神の命令を守って、神の御名を賛美するようになることが、歴史の意味であり、これ以外にありません。
世界史の意味は神の御国の発展であり、福音によって野蛮なローマ人やギリシャ人やゲルマン人がキリスト教化され、文明を築きました。そして、このキリスト教文明が全世界を席巻するようになったのです。現在世界のあらゆる土地に福音が伝えられています。福音の働きを邪魔することのできる者はひとりもいません。なぜならば、福音は「信じる者に救いを得させる神の力」だからです。肉(生まれながらの人間の罪の性質)は人間を下向きに引きずりおろしますが、聖霊は、人間に復活の力を与えて、上方向に引き上げます。つまり、本当の文明は(クリスチャンの内に働く)聖霊の力によって築き上げられるのです。ですから、いたずらに再臨、再臨と叫んで、アダムに与えられた「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を支配せよ。」との命令と矛盾する教えを説くことは現代の謬説と言えるのです。
神は、このような全世界の弟子化に貢献する民族に力と富と名誉をお与えになります。アメリカはこのような働きに熱心でした。イギリスもしかり。しかし、これらの国がそのような働きから逸脱するようになると、神はそのような祝福をとどめるようになります。
文明や文化が神の律法に反するようになると、その文明や文化は滅亡に向かいます。それは、この世界が神の所有だからです。神はご自分の目的に役立たない民族・文化・文明を弱くし、滅ぼされます。
キリスト教の目標は、万物に神の主権を打ち立てることにあります。どの領域においても、神はご自分に並び立つ者を許しません。それは絶対者の性質に反するのです。絶対者はあくまでも絶対であることを要求なさるのです。
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