死刑は正しい?
(Q)私は個人的にどうしても「死刑」制度を受け入れられないのですが、どうお考えですか。神の裁きは絶対ですが、司法制度には限界があり「命」を取り上げる権限まで与えるのはどうかと思うのですが。
(A) ご指摘の通り、司法制度には限界があります。人間の判断には常に誤りが伴うからです。そこで、聖書律法においては、証言について、補強証拠について、厳密な規定があります。とくに法廷偽証罪は最も基本的な罪(第九戒)になります。
しかし、聖書において、死刑は神が国家に与えた責務であるとも述べています。パウロは、「支配者は、あなたに益を与えるための、神のしもべ」であるが、もし我々が悪を行うなら、「恐れなければならない。それは、彼は無意味に剣を帯びていないからだ。」(ローマ13・4)ここで、「剣 macaira」という言葉には、明らかに「死刑」の意味が含まれています。新約聖書において、macaira は支配者による処刑を意味することがあります(ローマ8・35、使徒12・2)。「剣を帯びるthn macairas forein」という表現は、悪人を処刑する権威、そして、生と死を司る権威を象徴しています(Thayer's G.E. Lex. of N.T)。
旧約聖書では、死刑に関して、「死に当たる罪」という表現が用いられています(申命記21・22)。パウロが使徒25・11において、多くの罪状を並べ立てられて訴えられた時に、「もし私が悪いことをして、死に当たることをしたのなら、私は死をのがれようとはしない。」と述べて、死刑制度に服従する意思を見せています。
「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。・・・人の血を流す者は、人によって血を流される。」(創世記9・5−6)とあるノアの律法が廃棄されたと明言されている箇所はどこにもありません。その他、モーセ律法における数々の死刑の定めについても、イエス御自身が、「廃棄するために来たと思ってはならない。」(マタイ5・17)「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい。」(ルカ16・17)と述べています。また、パウロは信仰は「律法を無効にしない」(ローマ3・31)と述べています。
聖書には、死刑制度を非難する箇所はありません。死刑が非難されているのは、理由のない死刑についてだけです。「この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。」(ルカ24・19ー20)バプテスマのヨハネを処刑したことについて、イエスは「彼らは・・・彼に対して好き勝手なことをしたのです。」(マタイ17・12)と述べていますが、「好き勝手なこと」は裁判にも掛けずに私的な制裁をしたことを示しているのであって、死刑自体を指しているのではありません。十字架につけられた強盗は「我々は自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。」(ルカ23・41)と述べていますが、ルカは読者に対して、この発言が誤りであるという印象を与えていません。
もし司法制度において死刑が許されないならば、神は旧約聖書においても新約聖書においても、そのことを明示したはずですし、「処刑せよ」との命令は記されていないはずですが、逆に、次のように夥しい数の箇所において死刑は命令されているのです。
民数記35・31 故意の殺人には生命が要求される。贖い金では償えない。
創世記9・5−6、民数記35・16ー21、30ー33、申命記17・6、レビ記24・17。 過失殺人や動物の殺害は贖い金で赦免されたが、故意による人の殺害は絶対に赦免されない。
レビ記20・10 既婚者との姦淫。
申命記22・21ー24 未婚者の姦淫。ただし、マタイ1・19によれば、死刑が必須命令ではなく、この罪に対する最高刑が死刑。
レビ記20・11、12、14 近親相姦。
出エジプト22・19、レビ記20・15、16 獣姦。
レビ記18・22、20・13 男色
申命記22・25 婚約している処女を犯した場合。
申命記19・16ー20 死罪に関わる事件における法廷偽証罪。
出エジプト21・16 申命記24・7 誘拐。
レビ記21・9 姦淫を犯した祭司の娘。
出エジプト22・18 魔術。
レビ記20・2−5 人身御供。
出エジプト21・15、16、レビ記20・9 父母に対する暴力とのろい。
申命記21・18ー21 悔い改めない頑固な非行者。
レビ記24・11ー14、16、23 冒涜。
申命記13・1ー10 偽って預言する者。
出エジプト22・20 偶像神へ犠牲を捧げること。
申命記17・12 神の律法や合法的制度・法廷に対する故意の頑固な不服従。
申命記13・9、17・7 証人による処刑。
民数記15・35、36、申命記13・9 会衆による処刑。
民数記35・30、申命記17・6、19・15 2人に満たない証人の証言では処刑できない。
このような命令を見ると、神の愛と矛盾するのではないか、と考えやすいのですが、これらの律法を守ることが実は本当の愛であると、述べられているのです。つまり、律法を一言でまとめると、「神を全力で愛すること。そして、隣人を自分と同じように愛すること」という戒めになる、とイエスは述べています。ということは、処刑命令も含めてすべての神の律法を守ることが実は本当に神と人を愛していることなのだということになるのです。ですから、「処刑=愛の欠如」という図式は成り立ちません。
どのような社会も、主権を侵害するような者を生かしておいては成立することはできません。例えば、日本国は、日本の憲法を守り、その枠組みを認めようとする者だけを認めるのであって、日本の国家体制を破壊しようとするものに対しては不寛容です。自分の体にガンがあるのに、それに対して寛容であれば、自分が死んでしまいます。自分を破壊しようとする者に対しては、どの組織も寛容であってはならないのです。聖書における死罪はすべて神の秩序に対する全面的な戦争であって、軽微の過失ではありません。このような罪を認めることは、神の主権を侵害し、神をその王座から引きずりおろすことを意味するのです。ですから、神はそのような者を敵と見なして、そのものを滅ぼされます。そのような反逆者の排除は、まず人間の制度に委ねられます。人間の制度がそれを行わない場合は、その制度自体を滅ぼします。つまり、神は、ご自分の主権を認める者を助け、主権を認めない者を滅ぼすのです。そのようにして、神は全世界に神の主権を確立されます。
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