キリストは全人類のために死なれた?
(Q)ヘブル4,15で語られている大祭司キリストは、人間のように罪は犯さなかったものの、「わたしたちと同じように試練に会われた」とあるように、不動の神ではなく、われわれの弱さを十字架上で実際に身に負った「終のアダム」です。
(A)ご指摘のとおり、イエス・キリストの人間性は本当に大切な部分です。キリストが人間の弱さを十字架上で身におったという点は強調されるべきだと思います。
考えてみると、キリストはもともと神の第2位格として、霊的な存在であったのに、現在は肉体を取られて人間になっておられるということは大変不思議なことではないかと思います。というのは、神が変化されたからです。永遠に変わらぬ神が、被造物である人間を救うために人間の姿を取って、それも、昇天した後で、それを脱ぎ捨てたわけでもなく、キリストは永遠に神であり、人間の状態を保たれるわけですから、これは、大変なことです。自分を変化させる程に人間とは貴重な存在であるということ、しかも、「主は体のためである」というわけですから、人間の「肉体」とはそれほど重要なものなのです。
そして、しばしば考えるのですが、キリストは全人類のために死なれたわけではないということです。キリストは、世界の始まる前からある者を予定し、彼らを永遠の救いに定めておられるわけで、その彼らは、永遠に祝福された者として、神の愛の対象になり続ける、というのですから、神は愛する者を最初から定め、最後まで愛し続けるという、極めて偏愛的なお方であることが聖書において主張されているのです。これは、ヒューマニストには想像もつかないことです。「ヤコブを愛して、エサウを憎んだ」とあり、それも、「彼らが善も悪も行わず、まだ、生まれる前から」神は愛する者と憎む者とを選別されているという、神の主権という厳粛かつ、そら恐ろしくなるような事実に愕然とさせられます。宇宙全史の計画において、神の寵愛を受ける者の数は決定されているのであり、その「キリストの子供たち」ははじめから愛され、その愛は永遠の愛なのです。キリスト者への神の愛は不変です。神は、宇宙がはじまる前から永遠の先に至るまで、キリスト者への愛を減らすことはありません。神は人類の中のある者たちを、最初から最後まで徹底して愛するのです。そして、彼らに世界を相続させるのです。
このように、キリスト者には万物が与えられており、神の特別な民なのです。「パウロもケパも・・・すべてはあなたがたのものなのです。」そして、「神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。」
キリスト者は、世界の隠れた主人公です。キリスト者を通じて働く聖霊こそが真の世界史の原動力であり、新聞をにぎわせている有名な政治家や権力者たちがこの世の主人公ではありません。この「取るに足りない」弱いクリスチャンが、世界の歴史を動かしているということは、とうていこの世の人々からは理解されないでしょう。だから、私たちは、目に見える勢力に目を奪われてはならないのです。神の裁きの座に座った時に、人はどのように裁かれるのでしょうか。「愛された人たち。あなたがたは、私が病の時に私を見舞い、私が牢にいたとき、私を訪ね・・・」「主よ。いつ私がそのようなことをしたでしょうか。」「私の小さい者にしたのは私にしたのです。」
神の裁きは、このような基準によるのです。大きな帝国を作ったことや、ビジネスで成功したことや、千億の富を集めたことなど、評価の基準にはなりません。「私の小さい者」にどのような愛を行ったのか。これが本当の評価の基準なのです。キリストを愛するならば、クリスチャンも愛します。クリスチャンを愛せないのは、キリストを愛していないからです。
自分の生涯をこの評価基準に合わせることが本当の勝利者になる秘訣であると言えるでしょう。キリストが体をはって救い出した人々への愛こそ、自分の人生の最重大関心事とならなければ、と思うのです。
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