自然法ではだめ
(Q)ロマ2を取り上げてみます。そこで言われている「異邦人の良心」を、「自然」の法についての言及と見なすことはできませんでしょうか。
あるいはロマ1の「彼らは知っていながら・・・」。ほんの一例です。
(A)もちろん、掲示しましたように、自然法を完全に否定しているつもりはありません。生まれながらの人間に備わっている才能や良心は、すべて神から出たものですから(「よいものはすべて神より出る」)、これが一定の役割を演じていることはカルヴァンも認めているところです。つまり、聖霊の一般恩恵において、神は人間が最悪の状態に陥らないように抑制の恵みを与えておられるので、人間はとことん悪いことができないのです。しかし、人間の罪性を考えるときに、我々がこのように安全な市民生活を送ることができるのも神の抑制の恵みがあるからでしょう。もしクリスチャンではない日本人から抑制の恵みが取り去られれば、夜は恐ろしくて外を歩くことができなくなるでしょう。ですから、最終的に自然法ではだめだということをふまえた上で、社会秩序を保つために自然法が役立つと述べた次第です。
しかし、自然法に究極的な位置を与えることはキリスト教においてけっして許されるものではないと考えます。なぜならば、自然法はキリストの神を主権者として置いてはいないからです。パウロは次のように述べて、最終的にキリストを主権者として認めない教えを撲滅しなければならないとのべています。
私たちは、様々な思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させます。また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。(2コリント10・5ー6)
この箇所では、いわゆる「中立領域」を認めてヒューマニズムに場所を与えることを許す考え方は存在しません。あくまでも、最終的にクリスチャンは、あらゆるキリストに逆らって立つ様々な思弁や高ぶりやはかりごとを撲滅して、キリストに服従させなければならないのです。つまり、キリストの主権を前提としないあらゆる「一見問題のないように見える」領域を罪と断定し、それをキリストの主権を前提としたものに変えていく責務がクリスチャンには与えられているのです。(たしかに、この世においては大きな限界があるわけですが。)
それは強制的・武力的に行われるものではありません。あくまでも、自発的な回心による漸進的変化を待たねばならないのです。これは、聖霊の働き以外の何ものでもありません。聖霊が人の心に働きかけてその人を内側から変えていくことによって、神の御業は前進するのです。
自然法や人間の良心は明らかに神から出ている部分があります。しかし、それは罪によってけがされており、その罪は必ず実を結ぶのです。それは歴史が進むにつれて明らかになっていきます。毒麦もよい麦も中間時代においては違いはありません。しかし、毒麦はサタンに由来していることが時間と共に明らかになるのです。自然法の中に潜む反キリスト性は、やがて衆目の前に明らかになるでしょう。いや、もうすでにヒューマニズムが殺人的で、非人間的であることは、フランスやソ連やカンボジアや中国やベトナムで殺されたり収容所に送られた幾億もの人々の犠牲が示しているではありませんか。生まれながらの人間はやはり、蛇のすえなのです。神とは別に倫理を築き上げるという試みは、サタンの誘惑以外の何ものでもないのです。彼らに任せておいてはだめなのです。
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