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自然法ではだめ part2



(Q)先生は、自然法の存在に肯定的な掲示をしておられます。これは、「自然法」という概念をどのように定義するかという半ばロゴマギーの問題でしょうが……。  自然法思想の「典型」は、トマス・アキナス以前から連綿と続くカトリック神学・カトリック法思想です。この神学は、かのエミール・ブルンナーの「自然」神学と本質的に同様であり、「人間は、聖書による特別啓示なくしても、自然や・人間の本性を理性的に観察することにより、神の存在や、客観的絶対的な正義を認識できる。」という思想が根本にあると思います。

 先生が言及する「自然法」もこれと同値と考えて良いのでしょうか?  これは、神による世界の創造・倫理規範や律法の制定「以前」にあるいは,それとは「別に」客観的な「正義」が存在したという考えにつながるように思えるのです。  「人間以外が=神が−意思によって−定めた法」
を自然法と定義するなら、先生の用語法も理解できます。しかし,「自然法」という言葉を「人であれ神であれ−意思による制定行為なくして−客観的に存在する法」と定義するならば、先生のご見解は、ブルンナーやカトリックに近いように思えます。

(A)自然法について肯定的な発言をしたのは、自然法が社会や個人の倫理規範としてある程度まで秩序を保つのに役立つからであって、それが最終的なものであると考えておりません。聖書的キリスト教はあくまでも、宇宙が神によって創造され、神の法によって統治されていると考えます。それは、神という人格者の意思によって統治されており、この意思の外において起こることは一切ないし、また、神の意志に反して行われることはすべて刑罰の対象となるという意味で、神の法は絶対なのです。ですから、聖書の三位一体の神とは無関係に存在する自然法などというものは、聖書的キリスト教において絶対に認められないのです。それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。

 19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。個人や社会の倫理を決定するものが「誰かはわからないが、とにかく宇宙を統治している神的存在」であるという信仰は、適者生存、自然淘汰の「弱肉強食」的世界観によって破壊されたのです。秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。これは、もはや universe ではなく、multiverse です。つまり、多神教の世界観なのです。唯一神による統一的宇宙ではなく、多くの神々の支配する多元的宇宙なのです。20世紀は、自然法の死と同時に、多神教の時代を迎えたのです。この意味で、アダムにおいてサタンが実現した「法の制定者としての人間」像が復活しました。

 人間が神とは無関係に善悪を決定していくという考えは、今日世界に満ちています。中絶賛成、死刑制度反対、自由恋愛・・・。こういった無秩序は、人間が宇宙に統一的な法を認めないことから起こっています。聖書的キリスト教を土台として作り上げられた西洋キリスト教文明はこのような多神教的無律法主義によって破滅の危機に瀕しているのです。

 では、どこからこのような問題が発生したのか。その発端は、キリスト教が、理性を堕落の影響の埒外において、神の法によらずとも、人間理性のみによって認識し、統治できる領域を許容したところにあります。このようなギリシャ無神論に起源を持つ自然法思想の混入を許したところにキリスト教の堕落が始まったと見ることができるのです。宗教改革はある程度この問題を解決しました。「聖書のみ。信仰のみ」の原則は、自然法へのある程度の制限を設けました。しかし、それが徹底したものでないところに、十分な改革が行われず、今日のような世俗化を許した元凶があると見ることができます。カルヴァンは、申命記の説教の中ではっきりと聖書律法による世界統治の原則を打ち出しています(ゲイリー・ノース著「カルヴァンはセオノミストだったのか」福音総合研究所(武蔵野市中町)刊、参照)。しかし、残念なことに「キリスト教綱要」の中では自然法を認めるかのような発言をしているのです。

「しかしながら、私は、ことのついでに、国家が神の御前で敬虔に用いなければならない法律はどの様なものでなければならないのか、そして、国家の正しい統治の仕方はどの様なものなのかということについて少しく述べてみたい。もしこの問題で多くの人々が危険な間違いに陥っているという事実がなければ、私は、このような問題に関わる気はない。というのは、ある人々は、モーセの政体(polity)を無視する国家も正しく統治されており、諸国民の普通法(common law)にしたがってうまく治められているのだということを否定しているからである。この意見の危険性と煽動的性格の証明は他の人に任せることにして、私はその誤謬性と馬鹿馬鹿しさを明らかにしたいと思う。」(「キリスト教綱要」第4巻20章14節)

 しかし、彼において明確にされた「全的堕落」の教理により、理性も堕落の影響を免れていないこと、したがって、正しい世界認識は、啓示と聖霊によらなければならないという原則が確立されていたことは、カルヴァン主義におけるその後の有神論的世界観の発展を可能にしました(渡部公平著「カルヴァンとカルビニストたち」小峯書店)。人間理性の自律を絶対に許さず、万物を聖書律法によって統治しなければならないことが、今日人間に与えられた唯一の解決策であると考える次第です。




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