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天皇制



(Q)私たちの信じる神様なら、天皇家全員をクリスチャンにするなどたやすいことです。クリスチャンは無益な議論をするより祈るべきです。

(A)たしかに天皇制にはいろいろな問題があります。たとえば、天皇制には聖書にあるモロク礼拝の要素があることが一つとしてあると思います。つまり、神と人とを結ぶ神格化された祭司としての役割をかつては「担わされて」いたということです。そして、日本において為政者はその神格化された立場を利用して、「天皇に従え」と国民に命じて、実のところ為政者が国民を奴隷として国家に奉仕させる方便としたという事実があったのではないか。このように、ただの人間に「責任を取らなくてもよい神的イメージ」を持たせて、それを国家統治に利用したところに悪魔的な部分があったことは事実だと思います。

 しかし、現在の天皇制にそのような部分が残っていたとしても天皇を廃位させてそれを排除したりしても、何の意味もないと私は思うのです。

 カルケドン信条において、神であり同時に人である唯一の仲介者はキリスト一人であるという教理が確立されました。これによって、この地上に存在するいかなる人間や人間の組織も、絶対に神格化されてはならないという原則ができたのです。このキリストの王権と主権を天皇が自ら認めてあのイギリスの王のように、「再臨のキリストがやってくるときに私はこの王冠をキリストにお返しします。」という告白をするようになれば問題はないのではないか。つまり、聖書が繰り返して主張しているように、問題の中心は環境を変えることにあるのではなく、回心であるということが、天皇問題についても言えると思います。

 イスラエルにおいて、悪い王様もたくさんでましたが、神は王制を否定されなかった。王を廃位させることが解決であれば、神は王制を否定する発言を預言者を通して伝えたことでしょう。そうではなく、神は王が悔い改めることを求めたのです。たしかに、人間の作った制度で、人間の罪性を反映しやすい制度はあります。独裁制は、ひとりの人間に過大な責任と権限を持たせることによって、個人のわがままが通りやすくなるという欠点があります。ですから、権限を分散する制度が作られていったのですが、このような民主主義改革も、あくまでも国民が正しい判断力を持ち、正しく問題を処理できるという前提において効果があるのです。そうでないと、衆愚政治になってしまうでしょう。あらゆる問題の根本には常に「倫理的問題」が存在することをクリスチャンは忘れてはならないと思います。

 私たちクリスチャンは、天皇制を排除することを第一に求めるのではなく、天皇自らがキリストの主権を認めて、あらゆることがらを聖書に基づいて考え、そして実行することを受け入れるように祈ることのほうが先決ではないかと思います。そのときに、天皇という名前も何か神性を持たない名に変わることでしょう。  キリストは現在天の御座におられ、全世界を統治されています。「天においても地においても一切の権威が」復活のキリストに与えられているのです。ですから、天皇がクリスチャンになることも、たやすいことなのです。まず、天皇を愛して、彼がキリストの主権を認めるように祈ることが最短コースではないでしょうか。「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1・20)のです。




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