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理性は堕落しているか?





 理性は堕落しています。なぜならば、聖書において、「汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。」(テトス1・15)とあるからです。人間は罪を犯し、全ての人は神の前において汚れているのですから、誰一人として、自分は神なしでも正しい認識を持つことができると主張はできないはずです。

 そこで、正しい認識は、生まれながらの理性によるのではなく、再生された理性と神の啓示によらなければならないということが必然的に言えるのです。これは、宗教的な知識だけではなく、数学・化学・物理学・体育学・工学・・・あらゆる分野について言えることなのです。あらゆる領域において、神の恵みがなければ正しい学問は形成できないとするのが、聖書の主張です。学問が自律すると、バベルの塔になって、神の裁きを受けるようになるのです。

 認識は、聖霊の導きを必要とします。それだけではなく、聖書から教えられる必要があるのです。聖書は聖霊が書いたものですから、直接に示される教えや幻も聖書と矛盾するわけはないのです。

 自然法と呼ばれるものは、理性の自律を前提としていますから、もともと聖書の主張から大きく離れているのです。そして、このように自律の領域を作ることによって、スコラ主義は自分の首を絞めてきたのです。フランケンシュタインは主人を襲います。神から独立した領域を作ることはキリスト教にとって自殺行為です。

 世界の島で、神の律法が通用しない島が一つでもあるでしょうか。姦淫・盗み・殺人が自由に行える島があるでしょうか。ありません。神はそのような自律的島の存在を許しません。そのように、政治において、経済において、学問において、芸術において、神から自律して存在する領域は一つとしてないのです。




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