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律法の有効性



(Q)律法の有効性は、しかし、新しい「キリストの法」を前提にして考えられるべきだと思います。何故なら、キリスト者が律法に接するのと、旧約あるいは聖書圏に属さない人たちが律法に接するのとは、大きな霊的違いがあるからだと思うのです。 セオノミーとキリストノミー Christonomie との関係は、どのようになりますでしょうか。やはり律法優先ですか。

(A)「キリストの法」とは何を指しているのでしょうか。

 キリストは、「律法を廃棄するために来たのではない。むしろ、それを成就するためにきた。」と明言されました。旧約聖書の律法とキリストの律法とはどこが違うのでしょうか。

 今日のキリスト教界には、律法を否定的に見る見方がありますが、それは、極めて反聖書的であると言えます。なぜならば、律法は神御自身がお与えになったものだからです。旧約聖書の律法も新約聖書におけるキリストの戒めも、互いに矛盾するところはありません。キリスト御自身がモーセのシナイ山において律法を与えたのであり、マタイの山上の説教は、その律法を新たに律法授与者の立場から正しい解釈を述べたのものであると理解すべきでしょう

 例えば、「目には目を。歯には歯を。」というのは、旧約聖書の復讐の教えであり、「汝の敵をも愛せ。」は新約聖書の愛の教えであると分けるのは、非常に浅薄な解釈であると言わねばなりません。なぜならば、旧約聖書の「目には目を。歯には歯を。」は、けっして復讐を奨励している戒めではないからです。なぜならば、同じモーセ律法に、「自分で復讐してはならない。」とあるからです。そもそも、律法の中心は、「神を全身全霊で愛せよ。隣人を自分と同じように愛せよ。」との戒めに要約されるのですから。  「目には目を。歯には歯を。」は刑罰の大きさを制限しているのです。よく、異教の法典では、「片目をやられたら両目を」「歯を折られたら、腕を」というような罪の大きさに比例しない刑罰が科せられます。このような、節度のない刑罰を禁じているのがこの戒めなのです。

 たしかに、キリスト者が律法に接するのと、旧約あるいは聖書圏に属さない人たちが律法に接するのとは、大きな霊的違いがあるのは事実です。しかし、聖書は、「全世界の国民を弟子とし、キリストが命令した教えを守るように彼らに命じなさい。」と語っているのですから、律法が普遍的に有効であると考えることができるのです。ミカ書に次のような言葉があります。



終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れてくる。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主は、ご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。それは、シオンからみおしえ(トーラー)が出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」(4・1−2)



これは、異邦の民が律法を喜んで、それを探し求めるだろう、との預言です。

聖書において律法は恵みとしてとらえられています。

詩篇119篇はそのよい例です。



    幸いなるかな。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。・・・私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。・・・あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。・・・私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。・・・私は、あなたの戒めを、求めています。

 ここには、神の律法を否定的に見る見方はありません。

 なぜ、この詩篇記者は律法を喜んだのでしょうか。それは、律法は、神からの祝福を受ける道だからです。律法に逆らう者は、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、のろいが下ります。しかし、律法に従う者には、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、祝福されるのです(ローマ2・9−10)。

 人は、神に創造されたものである以上、神の法の支配下にあります。だれであっても、幸せになりたいならば、神の法に従う以外にはないのです。ですから、本当の宣教とは、すべての国民が神の法を守るように教え導くことであると言えましょう。

 明治時代になって、日本人はキリスト教国の経済的繁栄や科学技術に目をみはりました。これこそ、キリスト教を受け入れた国と、受け入れなかった国の差なのです。律法を守ることがどれほどその国民に利益を与えることでしょうか。

 いわゆる、文化相対主義は、聖書の教えに反しています。どの文化も優劣はない、などとは、奇妙な見解です。夫が死んだらその火葬の火の中に飛び込まなければ貞淑な妻とは言えないといって、妻に殉死させる国民の文化が高いとでも言うのでしょうか。祭りの山車の大きな車輪にひき殺されると天国に行けると信じて、その下に飛び込む民が後を断たないという文化が素晴らしいとでも言うのでしょうか。1万人もの捕虜の心臓を取り出してそれを神に捧げるような文化の中に暮らしたいと思うでしょうか。

 神の御心は、このような悪魔的な文化を絶滅して、それを律法を守る文化に変えることです。全世界からこのような野蛮な風習を根絶することが神の御心です。

キリストは、「あなたの御心が天で行われるように、地上でも行われますように。」と祈れと言われました。ですから、この地上で、人身御供をする文化が生き残ることが正しいと主張する人はキリストに逆らっているのです。文化相対主義者はキリストに反抗しています。彼はキリストの主権を認めません。ですから、キリストの敵なのです。




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