男尊女卑
(Q)男尊女卑の社会がなせる(変な系図の)技かも知れませんね。
(A)聖書の人間観は、けっして男性を尊んで、女性を蔑視しているわけではありません。聖書には、すぐれた女性が数多く登場します。イエスは、自分に香油を塗った信仰篤い女性をほめています。あくまでも男女の本質的価値は平等であるというのが聖書の主張です。男女に差があるとすれば、それは役割から来ています。男性は契約の主として、家庭の中で立てられています。女性は男性を助ける助け手の役割を与えられています(創世記1ー3章、第1コリント11・3以下)。これは、会社の社長が平社員よりも必ずしも人格的価値という点で上であるわけではなく、ただ役割として上に立てられているということと似ています。神の三位格の間に本質的な上下はありませんが、子なる神は父なる神に従い、聖霊なる神は両者に仕えています。神の御存在の内部において社会が存在することを聖書ははっきりと主張しています(ヨハネ4・34、17章など)。
神は人間を似姿として、つまり、神に似た者としてお造りになったので、人間の社会も神の属性を反映しています。神の御存在の内部において秩序があるように、人間の社会においても秩序がなければなりません。社会において、家庭において、あらゆる組織において、上下関係が存在するのは、このためなのです。ですから、聖書的社会には、あくまでも役割上の上下関係が存在しなければならないのです。この上下関係を破壊することは、神に対する反逆行為であると述べられています(ローマ13・1以下など)。
神がイスラエルと契約を結ばれた時に、その第2条件として「上下関係(ヒエラルキー)」を定められました(出エジプト記18章)。神は人間の社会を、上下関係を通して統治されます。ですから、どの組織においても、役割上、下の位置にある者は上位の者に服従すべきだと言われています。妻は夫に従い、生徒は先生に、社員は社長に従わなければならない、というのは神がその権威をお立てになったからです。
しかし、同時に、上位の者は、上位に立てられたことの故に、格別大きな責任が課せられています。女性の同性愛に死刑の規定がないのに、男性の同性愛に死刑が定められているのはこのためです。妻が処女で結婚しなかったと言って訴訟を起こし、妻の潔白が証明された場合、訴えた夫に厳しい刑罰が課せられているのは、男性に与えられた大きな責任を表しています(申命記22章)。教会において牧師や教師は格別厳しい裁きを受けます(ヤコブ3・1)。
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