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民主主義について





 民主主義は、民主という以上、キリスト教にとって最終的価値ではありません。主は一人です。神以外に主はいません。しかし、民主主義がなぜキリスト教的な側面を持っているかと言いますと、それは、権力の集中を防ぐからです。聖書は、人間は罪人であり、罪人によって構成されるいかなる組織も絶対ではなく、堕落は免れない、と言います。ですから、ある人物や組織が絶対の権力を持つことはきわめて危険なのです。つねにチェック・アンド・バランスが必要なのです。人間が誤りうる存在である以上、それをだれかがチェックしなければなりません。他者から裁きを受けない組織は破滅する運命にあります。私はかつてソ連に住んだことがありますが、ソ連では、日本のような資本主義社会のように、自社が作った製品をチェックしてくれる消費者がいません。つまり、粗悪品の傘を作っても、人々はそれ以外の商品がないのでそれを買わざるを得ない、そのため、製造者の側のわがままがまかり通り、街には不良品があふれることになるのです。政治についても同じで、マルクス主義は、本質的に性善説を信じており、労働者が独裁権を持てば世界はよくなると考えました。そのため、共産党は一党独裁を許され、だれもそれをチェックすることができなかったのです。結局、ソ連は自滅しました。国内でわがままを通しても、世界では通りません。ソ連の商品が、ソ連の中では買ってくれるお客を持っていても、世界市場というチェックだらけの修羅場の中では生き残れなかったのと同様に、ソ連政府もチェックと審判がなかったために、腐敗堕落し、赤字企業のツケや同盟諸国への無謀な援助の負担・思いつきの軍備拡張などがたたって経済破綻してしまいました。

 人間観(すなわち、人間をどのように見るか)は政治を行う上で極めて重要なファクターです。非武装中立は美しい理想かもしれませんが、それは、人間が罪人ではないという前提の上にのみ成り立つものです。しかし、実際は、人間は罪人なのです。人間はどん欲であり、他国の肥よくな土地や豊かな資源や美しい国土を見ると、「どうしても取りたい、占領して自分のものにしたい」と望むものです。もし非武装中立を主張する人がいるならば、その人は自分の家に鍵をかけないで寝るべきです。社会党が今日国民の支持を失っているのも、社会党の「神学」が時代遅れだからです。社会主義・共産主義は、ヒューマニズムの純粋型であり、ヒューマニズムは人間の堕落を信じません。このように、人間の堕落を認めないという致命的な欠陥を持った政治理論が、現実の世界に通用するわけがありません。(*)

(*)例えば、人間が罪人であることを認めない人はどの会社の社長にもなれません。騙したり・盗んだり・持ち逃げしたり・うそをついたり・脅かしたり・暴力をふるったりするのが人間なのです。このような現実を認めることが出来ない人をだれも社長には推薦しませんし、彼が推薦されて社長になったとしてもすぐに会社はつぶれてしまいます。




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