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信条の重要性





 社会は、思想や信条を中心に成立しています。どの社会でも、宗教的ではない社会はありません。社会をキャベツとすると、その皮を一枚一枚はいでいくと、最後にシンが出てきます。そのシンが宗教なのです。まず、中心に何が正しくて何が正しくないかを決定する宗教があって、それに基づいて法律が定められます。法律に基づいて周辺に諸制度ができるのです。近代社会の中核をなす信条は、人間中心主義です。あらゆることは人間のために存在し、人間の幸福に寄与するために存在するという考えが社会を支配しています。そして、この信条を維持するために、教育が重要な機能を果たしているのです。しかし、信条はいつまでも有効であるとは限りません。信条が社会の実状と合わなかったり、社会の要請に応えることができなければ、捨てられてしまうのです。信条自体に問題がある場合、政治的な解決は何の役にも立ちません。土台が腐れているのに、家をいくら修理しても、傾いてしまうだけです。今日の日本の問題は信条の欠陥が原因です。哲学的・宗教的問題に目を向けなければ、本当の解決は得られません。

 人間の可塑性を信じ、人間の性善説を信じるヒューマニズムに欠陥があることは、様々な実例によって証明されました。かつて、「教育刑で人間は更正される」との信念のもとに作られた米国の刑務所は、囚人であふれかえっています。中国では、死刑囚も教育的刑罰によって、真人間に変わることを宣伝していましたが、今では、公開処刑まで行っています。ヒューマニズムの迷信の一つは、「法による救い」です。掟によって人間は救われるとの思想は、聖書においてパリサイ主義の形で表現されています。人間は、法によってはけっして救われません。法が現れると、かえってむさぼりの心が生じるとさえ言います。「わたしは『むさぼるな』と言われなければ、むさぼらなかったでしょう。」とパウロは言いました。人間の心には、エントロピー増大の法則が働いているのです。つまり、無秩序が増大する方向に動いています。人間を信じて、人間の自助努力によってよりよい社会を築こうとの試みは必ず失敗します。このことは、かつてのソ連の偽善を見ても分かります。ソ連では、社会主義がいかにすばらしい制度であるかを示すために、外見をよくして、訪問者に最もよい所ばかりを見せました。巨大なマスゲームを見せて、人民が一致団結して素晴らしい社会を築いていることを見せようとしました。しかし、少々洞察力があれば、このマスゲームほど不気味なものはないことは容易に理解できます。人間が人間を変えることができると主張する社会に生きることは、顔のない奴隷として生きることを意味します。キリスト教文明を象徴するのは、このような不気味なマスゲームではなく、オーケストラです。オーケストラでは、一つ一つの楽器は個性豊かです。しかし、この個性が集まって極めて統一のとれた豊かな音楽が奏でられるのです。

 日本の社会は、キリスト教の伝統が希薄なので、すぐに救済主になりたがります。法律において、シートベルトやヘルメットの着用を義務づけることにそのような「救い主としての国家」の自負心が現れています。




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