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時間とともに神の勢力は強くなる



(Q)富井健さん、お元気ですか。またメールをいただき、感謝です。

 確かに、人間の理性が神を証明するか否定するかという不思議な状態が、啓蒙時代から(いや、アダムとイブの原罪から)続いています。神認識もさることながら、一般認識さえも定かではない現代人の哀れさは、大きいものです。

 しかし、最大の皮肉は、現代人がそれを欠陥として認識していないことでしょう。それだけではありません。意識を拡大(拡張)したいがために、麻薬に手を出し、超常現象に溺れている人たちが、いかに多いことか。

 聖書的にいえば、知ることは、知られていること(神に)であるため、autonomy を崇拝している現代人は、theonomy も christocentrism も理解できないでいるのですね。

 ひとつ質問があるのですが、富井健さんが「時間が経過すればするほど、神の意志 がこの地球上に実現していきます」と言われるときに、人間による人間の「罪」と 「腐敗」の歴史 decadence, regressiveness, devolution (evolutionの反対語) などは、どのように体系的に位置づけられるのでしょうか。

もちろん、わたしも「イエスは勝利者!」だという確信の上に立ちますが。

いつも貴重な翻訳ならびにメッセージを、本当にありがとうございます。

(A)メールを読んでいただいてありがとうございました。

 科学万能主義に行き詰まった人間は麻薬や超常現象や神秘主義に逃げています。ヴァン・ティルは、「理性主義は神秘主義と秘密の取引をしている」という内容のことを言いましたが、神を前提としていない思想は超自然的なことを語ることができないので、自づから霊的な世界のことを神秘主義によって解釈しようとします。

 さて、ご質問いただいた点は非常に重要で中心的です。

 現実の世界を見ると、神の勢力が強くなって、悪の勢力が弱くなっているよりも、むしろその逆ではないのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、聖書は、一貫して、時間と共に、善の勢力は強くなり、悪の勢力は弱くなると述べています。一時的に悪者が繁栄することがありますが、それはあくまでも、神の忍耐によって許容されているだけで、けっして放置されているわけでも、神の勢力が悪の勢力の前にたじたじとなっているわけでもありません。そのよい例が毒麦のたとえです。  毒麦のたとえ(マタイ13章)の所で、イエスは、良い麦も毒麦もどちらも、成長すると述べておられます。そして、刈り取りまで、神によって放置されます。良い麦も毒麦もどちらも途中の段階では、外見的違いはありません。しかし、時がたつにつれてそれが毒麦であることがはっきりとします。それが毒麦であるということがはっきり分かるようになったときに、毒麦は抜き取られるのです。ですから、人間の罪や誤った思想は、その正体が明らかになるまで、成長しつづけます。今日、ヒューマニズムが神の裁きを受けていないのは、神がそれを永遠に触れないからではなく、熟するまで、つまり、その醜悪な正体が暴露されるまで、自然の成長を続けるのを待たれているのです。そして、ヒューマニズムが悪魔の思想であることがはっきりとした時点で神は、それに鎌を当てます。つまり、裁きを下されるのです。

 神様が罪を取り扱う方法は、このようなものです。人間は、自分が神に背いて罪を犯しても、けっして裁かれないと考えるかもしれません。しかし、それは、神が眠っておられるからではなく、その罪が実を結ぶまで放置されているのです。もし途中で悔い改めるならば、裁きを免れます。しかし、あくまでも罪を犯し続けると、その実が熟するまで、神は悔い改めを迫りつつ、時を待たれるのです。

 すべての人は例外なく、神の契約の中にあります。人間は生まれながらに神との契約関係にあるのです。その契約の規定、つまり、「神の法を守れば生命を与えられ、それを破れば、その罪にみあった刑罰がくだされる」という契約の第4条件「裁き」は実行に移されるのです。これには例外はありません。神が主権者である以上、そして、人間が契約的責任を負っている存在である以上、必ず神は契約にのっとって責任を取ることを要求されます。「欺かれてはならない。神はあなどられる方ではない。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる。」(ガラテヤ6・7)

 この刈り取りを避ける方法は、一つしかありません。それは、神の御子イエス・キリストの十字架の贖罪を信じて神に立ち返ることだけです。「もし私たちが罪を告白するならば、神は真実で正しい方なので、その罪を赦し、すべての悪から私たちを聖めてくださる。」(第1ヨハネ1・9)「肉のために蒔く者は肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は御霊から永遠の生命を刈り取る。」(同6・8)

 歴史の中で悪魔の勢力は裁きを受けて弱くなり、神の勢力は神の祝福を受けて強くなるので、歴史の中で神の御心は実現されていく、というのが、聖書の主張であると考えます。



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