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全体主義と無政府主義を避けるには





 人間は法なしでは生きられません。法がなければ法を作るものが必ず現れます。秩序がなければ秩序を作り出す人間が現れます。権力がなければ権力を作り出す人間が必ず現れます。権力は真空を嫌うのです。そこで問題なのが、どのような人間が権力を握るか、です。良識のある人間だけが権力を握るとは限りません。人を支配することにサディスティックな快感を覚える低級な人間が権力を握ることのないように防衛するには、社会が倫理的に安定していなければなりません。

相対主義では、倫理は、社会を構成している人間の通念に照らして判断されます。社会通念に照らして、たとえば、ある小説が猥褻であるかないかが判断されるのです。しかし、残念なことに、社会通念を構成する人間の倫理観はそれほど安定したものではありません。一世代でも価値観はかなり変わります。

 三位一体の神が基盤とならない社会では、全体主義と個人主義の間に常に緊張関係があります。つまり、個人の自由を主張すると、全体にまとまりがつかなくなり、カオスに向かう。かといって、全体の秩序を主張すると、何かの全体的権力によって自由が束縛される。例えば、今日の倫理的無秩序の進行を恐れる人々が教育勅語を持ち出して、戦前の全体主義的教育を復活させようとする。それに対して、「日の丸・君が代反対」と叫び続け自由を叫び続けると、どこまで社会がバラバラになるか分からず、どこで統一を維持したらよいのかわからない。社会は常にこの両極の間で揺れ動くのです。つまり、全体と個人の間に安定した調和を生み出すことができません。

それは人間の内に全体と個を調和させる基盤がないからです。人間はあくまでも一位一体であり、一つの肉体に一つの人格しかありません。イスラム教のように人格が一つしかない神を存在論的基盤とする社会も同じです。あらゆるものが常に、一つに向かって統合されようとする。そのような社会は全体主義に陥らざるを得ないのです。

 聖書では、神は一人でありながら三つの人格を持つと述べられています。つまり、「一」も「多」もどちらも究極なのです。「父なる神が子なる神と聖霊なる神を生み出したので、究極は父なる神お一人だ」と考える第一位優越説は「一」が「多」に優越すると説くので、そのような信仰を存在論の基準として社会を作ろうとすると全体主義になります。逆に、「父なる神、子なる神、聖霊なる神はそれぞれ別々の神である」と説く多神教を基盤にすると、社会は無秩序に歯止めをかけることができません。しかし、聖書は、「統一も究極の価値を持ち、多様性も究極の価値を持つ」と主張します。ですから、一が多に対して優越を主張することはできませんし、同じように、多も一に対して優越を主張できません。

 聖書において、国家と教会と家庭はそれぞれの領域において権威を持っていますが、自分の領域以外においては権威を主張できません。国家が教会や家庭を支配したり、教会が国家や家庭を支配したり、家庭が国家や教会を支配することはできません。それぞれがそれぞれ与えられた役割を果たせばよいのです。聖書に啓示された掟を守ることによって、それぞれは、多様性を維持しつつ、全体として神の支配の元にあって統一されています。

 たとえば、律法では、父親が子どもに対して持つ権威を限定しています。古代において、父親は子どもを殺したり、売り飛ばす権利を持っていました。しかし、律法では、父親の権威の限界は体罰までです。その先は国家に委ねられます(申命記二一・十八\二一)。また、イスラエルのウジヤ王は、僭越にも祭司にしか許されていない「香をたく」行為を行おうとして、神罰を受けました。国家が教会に介入してはならないことが示されています。

 一と多が調和した社会をよく表すものとして、オーケストラがあります。オーケストラは、多様な楽器によって構成されていますが、けっしてバラバラなことを行うのではなく、指揮者の指導のもとに一つの素晴らしい音楽を奏でます。個性を犠牲にすることなく、全体を生かす社会を築くには、三位一体の神を存在論的基盤に据える必要があるのです。

 「三位一体の神を基盤に据える」とは、具体的には、神の律法を社会に適用することです。神の律法は、神の属性を反映しているので、それを守り行うときに、具体的な生活において一と多を調和させることができるのです。それ以外の法は、一か多のどちらかに偏ってしまうので、永続的な効果を期待できません。

 ヒューマニズムは、人間を究極とするので、むきだしの力(軍事力)を所有する国家が絶対となりやすい。国家は国民を自己の目的のために利用しようとする。人間は国家のために存在するという信仰の下に教育が行われるので、個性のない、事なかれ主義の「顔のない人間」が増えます。国家を究極とするような社会では、世の中はどんどんつまらなくなります。教育や社会の現場では、個性重視が叫ばれていますが、「一」が「多」を圧倒する社会では、個性豊かな人間は育ちません。

 個人が、国家や社会に依存することなく、宇宙の創造者であり、統一者であり、最高権力者である三位一体の神に依存する時に、人間は本当に解放され、自由になります。目先の評価に左右されず、権力を恐れず、自立的自我を獲得し、神が自分に与えた使命に忠実に生きることが人間の目標です。神の前に一人一人は掛け替えのない存在であり、自分でなければできない仕事を神から委ねられているのです。この尊い人生を生き抜くには、国家や社会のために自分を犠牲にすることが美徳とされる社会から精神的に自立する必要があります。それを可能にするのは、聖書の神への信仰だけです。




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