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進化論





 「クリスチャンは進化論から手を引くべきだ」というのは、私のごときトーシロは早く引っ込んだほうがよいかもしれませんが、クリスチャンの生物学者がキリスト教の世界観に立って意見を述べることも否定するのであればと、うなずくことはできません。私に関して言えば、私の専門は生物学ではありません。しかし、残念ながら、極めて多くの人々が専門家がこう述べているという理由だけで、進化論を鵜呑みにしている状況は看過しがたいものがあります。一流の学者たちがヒトラーや戦前や戦時中の日本の権力やソ連等の御用学者になりました。学者がよってたかって研究しても間違うことはあるのです。一流の新聞社・放送局だから間違わないということはありません。戦前のマスコミを見ればこのことは明らかです。

 「はずだ」「はずがない」という形の疑問がおかしいならば、諸学は成立しません。「はずだ」「はずがない」という疑問は、論理を組み立てる上で避けることができないステップです。まして、私のようなトーシロが素朴な疑問をなげかける時に、「はずだ」「はずがない」を禁じられたら「おし」になりなさい、と言われているようなものです。進化論が正しいならば、「中間種の生物が現在でも地上に多数生存しているはずだ。」と考えることは当然です。どうして、ヒトとサルという種だけがあって、ヒトとサルの中間種が多数「生存」していないのですか。段階的に移行したのであれば、なぜ途中の段階が抜け落ちているのですか。このような素朴な質問を無視しては、進化論は早晩世間の人々から捨てられるでしょう。

 身長が伸びたとか体重が増えたという「もともとあったものが変化した」ことを進化に含めるならば、進化はあったと率直に認めます。しかし、ねずみの先祖が空を飛ぶ必要性を感じている内に羽がはえてきたという「もともとなかったものが生じた」形質変化には反対します。羽はきわめて精緻な構造です。羽だけがつけば飛べるようなものではありません。それを支える骨格や筋肉が必要です。体重も重すぎては飛べません。しかも、羽が中途半端にはえているようなねずみがいわゆる「生存競争」に勝つことができないのは、明らかです。では、どのような過程をへてねずみの先祖に羽がはえたのか、具体的に証拠をあげて説明する必要があります。

 進化論が科学だと言うならば、証拠をあげる必要があります。「ヒトはサルから進化したのだ」というならば、「ではどのような経過でサルはヒトに変わったのか」を示さなければなりません。化石で「ピテカンなんとか」があるではないか、と言う人がいますが、では、どうしてその「ピテカンなんとか」が現在生存していないのか。それは古い時代に進化してしまってヒトに移行したからだ、というなら、その原型であるサルはなぜ生き残っているのか。「ピテカンなんとか」は生存に適していなかった、というなら、なぜ、サルから「ピテカンなんとか」に進化したのか、生存に適しているから進化したはずではなかったか。

 クリスチャンは、精神的なことにたずさわっていればよく、科学上の問題には首をつっこむべきではない、というのは、現代一般に流行しているカント流二元論的ですが、もし、クリスチャンが科学上の真理について脆弱な基盤に立つならば、精神的なことにおいても確かなことはできません。客観的な真理に基づかないで、信仰が成立するとすれば、その人はよっぽどの善人です。もともと、クリスチャンらしい生き方が好きな人なのです。しかし、キリスト教が提示している問題は、そのような好みの問題ではありません。「神の絶対的命令として与えられた律法を人間が破っている、だから、そのような違反者は永遠の刑罰に処せられる」という人間の避けがたい運命について扱っているのです。「人間を愛し、戦争を止めよう」という三流ヒューマニズムの訴えかけをすることが聖書の目標ではありません。聖書の主張は次のようなものです。「人間は神によって創造された。そして、神は彼に守るべき掟を与えた。しかし、人間はその掟を破った。人間は悔い改めなければ、その姦淫の罪、中絶殺人の罪、虚偽の罪、色情をもって女性を見る罪、両親を敬わない罪等により、神の定めた永遠の刑罰に処せられる。それを避けるために、神の子イエス・キリストが人間の罪を背負って十字架にかかり処刑された。このイエス・キリストを自分の救済主であると信じる信仰によって人間は救われる。」  もしここで、神が人間を創造したことが否定されるならば、その後の救済の論理も否定されることになります。進化論は、キリストによる救いを否定するのです。もし神が人間を創造したのではないならば、なぜ人間は神の命令に従わなければならないのか。神と人間の間に創造者−被創造者の関係がなければ、神の十戒は何の意味もなくなってしまいます(もちろん、道徳的生活をおくることが好きな人にとっては参考意見になるでしょうが)。

 聖書は一貫して、「宗教的真理は科学的真理に基づいている」と述べています。科学的事実と宗教的事実を区別して、信仰的実存に逃げ込むことは許されません。








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