預言の私的解釈は罪
預言の私的解釈は罪です。
それには何よりも次のことを知っていなければなりません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。(第2ペテロ1:20)
今日、666がこれから登場する、これから大患難時代がくる、10カ国同盟から反キリストが現れて、ロシアがイスラエルに攻め込む、といった預言解釈が巷に出回っていますが、これは、聖書解釈のイロハを無視した私的解釈であり、『けっして小さな罪ではありません』。
聖書は、第一に書かれた当時の歴史的・社会的状況、全体の文脈を無視しては正しく解釈できません。聖書の手紙をはじめとして、様々な預言書は、第一義的に「当時の人々に語られたものである」ということがないがしろにされてはなりません。黙示録は、第1世紀のクリスチャンに宛てて書かれているのであって、20世紀の日本人を想定して書かれているわけではありません。(「666とは誰か?」参照)
聖書は、勝手な読み込みをしようと思えばどのようにも解釈できます。オウムの麻原教祖でさえ、聖書を用いて預言をしています。聖書は、絶対に(!)勝手な読み込みをしてはならないのです。聖書全体と調和しないいかなる解釈も断固として排除すべきです。パウロは自分たちを「神の奥義の管理者」であると呼びました。そして、「管理者には、忠実であることが要求されます」と述べています。アパートの管理人は、オーナーに対して忠実でなければクビにされてしまいます。勝手にアパートの壁の色を変えたり、建て増ししたりすれば処罰されるのです。私たちも、神の御言葉に何かをつけ加えたり、それから何かを差し引いたりできません。黙示録には、次のように書かれています。「これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。」(22:18ー19)
ある人は、「携挙が1988年に起こる88の理由」という本を書きました。しかし、彼はまだこの地上にいます。1980年代に様々な預言解説書を書いた人は、自分のはずれた予測によって人々が「聖書はまやかしものだ」という印象を持ったことに責任を感じなければなりません。こういった解説書の与えた悪影響はけっして小さなものではありません。
人間が書いた古文書や手紙について勝手な読み込みをしても、それほど大きな問題ではありません。しかし、神の御言葉を勝手に解釈することは自分の身に裁きを招きます。
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