神の法の現代社会への適用について
私は、神の法がプリミティブな社会にしか適用できないとは、考えません。聖書の律法は、ケース・ロー(あえて訳せば「判例法」)であって、原則を述べており、具体的な事柄を規定しているわけではないからです。例えば、旧約聖書に「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはならない。」という律法がありますが、これは牛のための規定なのかというと、新約聖書においてパウロは明確に否定しています。これは、「労働者が報酬を受けることは当然である。」ことを意味しているのだ、と聖書自身が解釈しているのです。ヒューマニズムにおいて、殺人は実に多様な解釈が可能です。自分たちにとって都合が悪いと、「胎児は人間ではないから中絶は殺人ではない」と主張します。そして、故意の殺人を犯した死刑囚を処刑することを殺人だと言います。しかし、聖書律法によれば、殺人は明確に定義されています。過失で人を殺した場合は、殺人に当たりません。しかし、故意の殺人は、本当の殺人であって、殺人者を処刑せよと述べられています。また、中絶については、「身重の女に故意に当たってその子が流産した場合は、殺人になる」と述べています。
ある人は、このような規定は何も聖書によらなくても、当然のことではないか、と言います。しかし、なぜそこまで聖書律法にこだわるのかというと、(1)まず人間の理性は極めて不安定で、時代や状況によって自分の都合のよい掟を作る傾向にあり、絶対的な基準を設定しなければ暴走してしまうことがあるということ。たとえば、聖書は罪に応じて刑罰の程度を加減しています。しかし、人間が作った法律では、小さな罪に対して極めて残虐な刑罰が適用されることがあります。17世紀のイギリスにおいて、たった100円くらいのお金を盗んだ子どもが絞首刑に処せられたことがあったと聞きます。聖書の「目には目、歯には歯」という言葉は、けっして復讐法ではなく、刑罰は犯罪の大きさに比例すべきだ、という原則を述べているのです。(2)人間の作った伝統や規則は、人間を束縛し、不自由にすること。人は、迷信を信じると迷信の奴隷になります。同じように、神を絶対視するのではなく、社会を絶対視し、村八分や人の刑罰を恐れると、人は人の奴隷となります。「人を恐れるとわなに陥る。しかし、主に信頼する者は守られる。」という御言葉は、人間の権威よりも神の権威を恐れることを述べていると思います。日本人が本当に個性豊かな自立した人間になるためには、村社会から勇気を出して抜け出ることが必要だと思います。かつて、キリスト教の入る前のゲルマン社会において、村八分は死を意味しました。キリスト教の神を信じる信仰がなければ、人間はどうしても人間の奴隷になると思います。
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