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律法は悪いものか?





 神の律法は悪いものでしょうか。聖書では、けっしてそのようには書かれていません。むしろ、人を祝福し、繁栄に至らせるものであると言っています(ヤコブ1:25)。たしかに、人間に罪を示し、キリストへ導く役割も果たすのですが、ただそれだけではありません。救われた後のクリスチャンを導く働きもするのです(これを律法の第三効用と言います)。パウロがさかんに「律法の下にはいない」と言ったのは、律法の裁きの下にはいないと言ったのです。もし律法がもう無用であるならば、彼はけっして「律法も言うように、(妻は)服従しなさい。」(第1コリント14:34)とは言わなかったはずです。

 律法は、あたかも交通法規のようなものです。交通法規は人を縛るためのものではなく、自由に秩序をもって安全に道路を利用するためのものです。もし交通法規を破って自由に走ろうとすれば、自分が事故にあってひどい思いをするだけです。ですから、「クリスチャンは律法から解放されているので、律法を守らなくてもよい」と言うならば、自分が痛い目に遭います。それだけではありません。他人や社会をも混乱させ、迷惑をかけるのです。律法は、人が自由に秩序をもって、安全に生活するために必要な規則です。もし律法が窮屈でいやだと言うならば、その人はかえって窮屈な人間の律法を押しつけられます。社会において、また、個人の生活において、何らかの法は絶対に必要です。法がなければ、個人の生活も社会も混沌状態になります。ですから、もし神の法が退けられれば人間の法がやってくるのです。教会において、社会において、律法を否定した所では、何らかの専制があるものです。ある特定の人が自分の頭で考え出した「道徳」や「伝統」が幅をきかすようになるのです。クリスチャンはいかなる非合理的なものからも解放されています。真理はあなたがたを自由にする、とイエス様が言ったとおりです。理にかなった、自由な生活をしたいならば、律法を尊んで、それを守ることです。

 わいせつな写真集を出版して、自分が自由の旗手であるかのような態度をとっていたカメラマンは、逆に国家の出版への介入を許しているのです。日本がこのまま性の「解放」の道を歩んで行けば、最後は、国家によるがんじがらめの束縛です。未熟な子どもには自由が与えられないように、自分で自分のことを管理できない国民にも自由は与えられません。

 無律法主義は今日の異端です。クリスチャンは裁きを免除されたのであって、律法を破る自由を与えられたのではありません。地の塩、世の光となるべき者が、規準を失っていれば、どうして世の人は規準をもてるのでしょうか。




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