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帰納的に考えても進化論はウソ





 なぜ、帰納的に考えても進化論が受け入れがたいのか?

 進化論にとって致命的なのは証拠がないことです。もし進化論が正しければ、「化石が出た出ない」を騒ぐ以前に、まず、私たちの「目の前に」数多くの生きた証拠が存在しなければならないからです。徐々に発展したと考えるならば、現在私たちの目の前に「人間でもない、かといって、人間と猿の共通の祖先でもない」中間の種が、実に普遍的に存在するはずです。たとえば、私たちの職場の何パーセントかの人々には、尻尾があるとか、まだ四つ足歩行に慣れていない人等がいてもいいわけです。いや、人間だけではなく、あらゆる種において、そのような中間種が現存していなければならないはずです。なぜならば、「種から種へと徐々に移行した」のですから。しかし、残念ながら、徐々に移行した証拠はないばかりか、種と種の間にははっきりとした隔たりがあって、中間種ができにくいことが実験で明らかになっています。進化論者で、徐々に移行した説を採用する人は、(1)中間種を現在生きているあらゆる種において生きた証拠を提示する可能性を示し、(2)化石において示し、(3)そもそも種というグループになぜ分かれているのか(移行しているならば、すべての種は中間種であるはずですから)を説明しなければなりません。

 徐々に移行したのでないと考える人は、現在存在する、実に精緻な器官と組織を持つ多様な種が、神の創造によらずに、どのように「一挙に」出現したかを証明しなければなりません。

 そもそも、熱力学第2法則によれば、人格的関与がなければ秩序は無秩序に向かうのです。つまり、ここに時計が存在すると、これを1億年ここに放置しておけば、バラバラになり砂になって消えてしまいます。その逆に、砂が1億年たつと独りでに集まってきて時計になることはありません。いかなる人格的な計画もなく、無秩序から秩序ができあがることはありえないのです。

 進化論によれば、種の多様性を説明するのではなく、逆になってしまうのではないでしょうか。適者生存が真実ならば、なぜ、鳥の先祖だけに羽がはえてそれが生き残ったのですか。より生存に適した器官が残るとすれば、鳥の先祖だけではなく、ライオンやサルやその他のあらゆる種の先祖になぜ羽がはえなかったのでしょうか。羽が生えたほうが生えないよりも生存に適したはずですが。

 Aという人とBという人の顔が似ているからといって、すぐに「彼らは親戚である」と結論できません。科学である以上、証拠を提示しなければならないはずです。二人の系図を調べたり、彼らの血がつながっていることを証明しなければならないはずです。そのような証拠がないのであれば、この結論は正しいと認めることはできないのです。ですから、進化論はあくまでも一つの仮説に過ぎないのです。




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