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労働の本質は刑罰か?





 創世記2:5、2:15で使用されているヘブライ語の「耕すabad」は「奉仕する」「労働する」と同じ言葉です。目的語を要求する場合、「神」「人」の時は「神(人)に仕える」となり、次に「もの」が来る場合、「〜を作る」「〜を耕す」という意味になります。他の288箇所は「例外なく」労働と関係しています(「ぶどう畑を耕す」(イザヤ19:9)「町を建設する」(エゼキエル48:18)など)。したがって、エデンの園の追放後の abad は「労働」であるが、追放前の abad は「労働」ではないと考えることは釈義上不可能です。

 もし聖書において労働が苦役としての意味しかないとするならば、なぜキリストに贖われた者に労働が勧められているのでしょうか(第2テサロニケ3:10)。繰り返しますが、労働の本質は刑罰ではありません。






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