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御言葉への疑い





 エバに対するサタンの誘惑は、「神はほんとうにそのように言われたのですか。」でした。

 このサタンの言葉は常に人間を惑わしています。つまり、御言葉に対する疑いこそ人間の第一の躓きなのです。聖書が「神は種類にしたがって、生き物、家畜、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」といっているのに、「いや、種類にしたがって直接に、ではなくて、進化によって長い時間をかけられたに違いない」と言うことはサタンのワナにまんまとはまっているのです。神の御言葉を疑う時に、人は理性を啓示の上に置いています。聖書の内容を自分の判断にしたがって取捨選択するので、彼の聖書は、虫食いだらけです。100人のクリスチャンがいれば、100冊の異なる聖書が存在することになります。人間の理性・人間の良心・人間の感情・人間の経験などによって聖書を評価していくことによって、彼は客観的な価値基準を失いました。彼のものさしはゴムでできています。時代や環境によって、彼の価値観は揺れ動きます。彼の家は、砂地に建っています。「これが神の御心だ。これに信頼して歩もう。」と述べることができないので、神ではなく、人を恐れるようになります。

 問題は彼個人にとどまりません。社会が客観的な価値基準を失うと、社会は人間の恣意に翻弄されることになります。早晩、弱肉強食の社会が訪れます。

 聖書を神の御言葉と信じないクリスチャンは、人間理性を究極に置くのでヒューマニストです。それも、マルキ・ド・サドのような、ヒューマニズムの前提に忠実な「一流の」ヒューマニストではなく、どっちつかずの三流ヒューマニストです。毒にも薬にもならない塩気のないクリスチャンは、「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ5:13)です。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13−14)日本人は横並びが好きなので、人と違ったことを嫌いますが、こと自分のいのちに関してはそのようなことは言ってられません。多くの人々が進化論を信じて、滅びの広い道に進んでいる時に、歩調を合わせると自分も滅んでしまいます。「けっして変わることがない」御言葉に信頼するのか、それとも、「誤り多き」自分の理性に信頼するのか。

 「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。・・・自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言3:5−7)






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