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聖書が教えるあわれみ





 クリスチャンはどこまでも人を赦して、人を責めてはならないのでしょうか。

 答えはノーです。

 聖書では、赦すべき者を赦し、赦すべきではない者を赦すな、と教えています。

 あわれみも同じです。ある人は、クリスチャンは相手がどのような罪を犯してもあわれみを止めてはならない、と考えていますが、これも大きな誤解と言うべきでしょう。聖書では、いくつかの罪について、あわれみを禁じています。

あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。(申命7:16)



あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。」(申命13・6 −9)

しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。(申命19・11−13)



このような場合、あわれむ人は罪の共犯者とみなされます。

 神があわれみを禁じている場合、人はその相手にあわれみをかけてはならないのです。故意に殺人を犯した者をあわれむことが禁じられている以上、もしそのような殺人者をあわれむならば、その人は、けっして愛から行動しているのではないのです。聖書が述べる愛とは、神の律法を越えません。それを行うことによって、神の法秩序を崩すような愛は愛と呼ぶことができません。教師を殴ったり、友人をいじめたりする生徒を野放しにする学校はがたがたになり、いずれ神からも世間から見放されます。牧師や長老に非建設的な批判を行う教会員を除名しない教会は、崩壊して、その結果、神を敬い、秩序を守る正しい教会員に迷惑がかかります。秩序を覆すような人々に「愛の手」をさしのべることは、秩序を守る正しい人々に「迷惑の手」をさしのべているのです。 聖書は、すべての人間には責任がある、と述べています。

突く癖があると知りながら、自分の牛をつながず野放しにし、それが他人を殺した場合、飼い主と牛に殺人の責任がかかります。牛でさえ、罪の責任を取らなければならないのです。(出エジプト21・28ー32)

 自分の息子が非行に走り、いくら注意してもその非行を止めなければ、その息子を国家の手に渡さなければならないと書いてあります。



かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒のみです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。(申命21・18−21)



 教会は、夫に先立たれて収入が断たれた未亡人を養う責任がありますが、その女性が、自堕落な生活をしている場合は、養わなくてもよいのです。養うべき未亡人とはこのような人です。



やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。・・・やもめとして名簿に載せるのは、・・・良い行いによって認められている人、すなわち、子供を育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざにつとめ励んだ人としなさい。(第1テモテ5・3ー10)



 条件を付けずに人を愛することは、愛することにはなりません。神の法秩序を維持し、それを発展させるという目的を逸脱したものを愛と呼ぶことはできません。

 しかし、ヒューマニズムの愛は、混沌をもたらします。かつて、教育の現場で、「警察を呼ぶことは教育の放棄だ」と言ってましたが、校内暴力が手が付けられない状態になりついに警察を呼びました。本当の教育とは、自分の行った事の責任の取り方を教えることなのです。神を恐れ、罪を犯すと刑罰を受けなければならないことを体で教えていくことが本当の子育てなのです。

 牛であれ、子供であれ、行った罪の責任を取らせない社会は崩壊します。価値は刑罰を要求します。刑罰の伴わない価値は存在しません。結婚が価値であれば、結婚の純潔を汚す出版物を猥褻として発売禁止にすべきです。生命を重んずるのであれば、故意の殺人に対して死刑をもって報いるべきです。このような刑罰を残酷だという人は、殺人の被害者や、社会にとって残酷な人なのです。








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