火の池
地獄は、それほど怖い所ではありません。なぜならば、それは一時的な刑罰の場所だからです。本当に怖い所とは、「火の池」です。聖書において地獄とは、キリストを信じないで死んだ人の霊が行くところです。そこで、キリストの再臨まで、霊の状態で待ちます。
歴史が終わって、キリストがもう一度最後の審判を行うためにこの地上に戻ってこられる時に、彼らには肉体が与えられます。そして、肉体のまま「火の池」と呼ばれる場所に投げ込まれます。
私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。・・・また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別のひとつの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。・・・いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20章11−15節)
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(同20章10節)
この「火の池」に比べれば地獄などは楽園です。霊だけではなく、肉体の苦しみが「永遠に」続くからです。100年だけ苦しんだら出てこれるということはありません。1億年たっても「絶対に」出てこれないのです。私たちは、アウシュビッツやヒロシマにおいて、火の池のさわりを見ることができます。しかし、これとてもハワイでバカンスしているようなものです。「火の池には脱出の希望はまったくありません。」
人間は、キリストを信じなければ、滅びるのです。他の宗教のように、人間の耳ざわりのいいことは述べていません。キリストを信じない人間の運命はきわめて悲惨であり、人間の現実はきわめて厳粛です。私たちはだれでも、全能者なる神の前に出て、審判を受ける運命にあるのです。「人はだれでも、一度死ぬことと、死後裁きを受けることが定められている」。神の裁きは、絶対の裁きであり、そこから逃れることはできません。
だから、私たちはキリストの贖いが必要なのです。キリストは十字架にかかって、私たちの罪の刑罰をすべて身代わりに受けてくださいました。そえゆえ、キリストを信じる時に、私たちは神の最終審判において「無罪」の宣告を受けることができるのです。そればかりか、キリストを信じる人には、神の子とされる特権が与えられます。つまり、神の相続を受けることができるのです。神の永遠の御国においては、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」のです。私たちの前には、二つの道があります。一つは、永遠の刑罰、一つは、永遠の祝福です。この選択ができるのは、この人生の間だけです。私たちの肉体が滅んだ後になって決心することはできません。決断は今です。
「御子を信じる者はさばかれない。」(ヨハネ3・18)
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4・13ー14)
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