律法とは何か
(Q)律法とは何ですか。
(A)律法とはモーセ五書を中心として、旧約聖書・新約聖書全体を意味します。しかし、今日の教会ではモーセ五書が軽視されており、それらは無効になったと述べるクリスチャンが多いので、あのような文章を載せたのです。聖書は、契約がすべての中心だと言っています。イスラエルの民が荒野を旅した時に、幕屋を中心に移動しました。その幕屋の中心の部屋は至聖所でした。その至聖所の真ん中に契約の箱が有りました。その中にはモーセの律法の二枚の板が入っていました。その板にはそれぞれ、十の戒めが書かれてありました。これは契約の板と呼ばれるものであり、神様用と人間用の二枚が収められていたのです(私たちもアパートを借りる時に1枚ずつ大家さんと自分とが所有します)。
モーセは、モーセ五書の中で、十戒の基本法に従属する判例法を記録しました。十戒自体の研究はよくなされているのですが、判例法については長年無視されてきました。例えば、「突く癖のある牛を放し飼いにして、もし他人を殺した場合、その罪の責任はその飼い主が負う。しかし、突く癖があると知らなかった場合は、その責任はない。」という判例法は、「殺してはならない」に従属する法律であり、「殺す」ことの意味を具体的に示してくれるのです。
現代に適用すれば、「飲酒して運転すれば危険であることを承知の上で運転し、事故を起こした人は有罪になる」となりますか。このような判例法を、この2000年の間クリスチャンは無視してきたため、クリスチャンの中で「殺す」とはどのようなことかが分からなくなってしまったのです。
特に今日のような相対主義の時代では、この傾向は顕著で、ある人は、「死刑は殺すことだ」と言い、ある人は、「中絶は殺すことではない」と言います。しかし、判例法を読むと、国家は「剣の権威」を神から与えられていて、「故意の殺人者を処刑せよ」と述べられています。
したがって、神が殺すことを命じておられる犯罪について国家は死刑にしてもよいのです。これは殺人ではありません。また、判例法では、中絶は罪であると述べています。「身重の女に突き当たってその子が流産したらその人は殺人を犯したことになる」と述べられています。ですから、聖書は胎児を人間として扱っているのです。
人間は、神ではないので、何が善で何が悪であるかを決定する権威を持っていません。今日、社会においても教会においても基準が曖昧になってきて自分勝手な生き方が当然のような状況になってきました。しかし、神は、ご自分の律法にしたがって人間を裁かれるので、人間の側では、神の御心を探ってそれに従うように努力する必要があるのです。その意味で、律法研究がどうしても必要なのです。
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