i・MODE→  

契約について





 契約は神と人間をつなぐ絆です。

 契約は次の5つの条件から成り立っています。

1.超越

2.上下関係

3.律法

4.祝福とのろい

5.相続

 当時の中近東の宗主契約はこの形を取っていました。申命記全体はこの構造になっており、十戒やモーセ五書全体もこの構造になっています(いのちのことば社刊「聖書ガイドブック」参照)。

 1.超越−まず、神は「私はあなたがたをエジプトから導き出した神である」と宣言されます。つまり、神は民を支配すべき主であることを宣言しているわけです。

 2.上下関係−神が民を支配するためのヒエラルキーが定められています。つまり、団体を支配するには、上下関係に基づく組織が必要です。ここで、人間社会における権威の問題が定義されます。人間社会における権威は、決して人間が定めたものではなく、神に由来するのです。

 「すべて立てられた権威は神から来る」とパウロが聖書において述べています。自分にとって父母の権威、職場の上司、あらゆる組織は神の権威によって維持されています。これが神の支配の方法なのです。

 神は、人間を社会的存在として創造されました。人間同士の間に上下関係をつくることによって神はご自分の支配を実行されるのです。ですから、人間関係すべてにおいて神が立てた権威に対して「神のゆえに」敬意を払い、服従すべきなのです。立てられた権威に反抗することは、神に反抗することに等しいのです。

 しかし、この権威にも限界があります。つまり、大本の権威である神の戒めに反することを命じた場合にはその権威に従う必要はないのです。例えば、ある夫が、泥棒をすることにして、妻にその見張り役をするように命じた場合、妻はその命令に従うべきではありません。

 3.律法−神の権威に服従することの具体的な規則が述べられています。これは契約の中心部分です。

 律法の中心は、「神を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛すること。隣人を自分自身のように愛すること。」(申命記6)です。律法とは、神を愛し、人を愛するための具体的な方法なのです。

 ですから、「私はおまえを愛する」と言って、愛人を抱く男性は、本当にその人も、家族も愛してはいないのです。なぜならば、「愛するとは神の戒めを守ることだから」(第一ヨハネ)であり、律法には「姦淫してはならない」と書いてあるからです。今日のヒューマニズムの「愛」が偽りの愛であることは律法を見れば分かります。

 4.祝福とのろい−人間が律法にどのように服従したかにしたがって神は祝福とのろいを下されます。

 申命記28章にそのことが詳しく記されています。神の命令を守る者を神は祝福し、神の命令を破る者に神はのろいをくだされるとここに記されています。

 これはもっともなことです。神は、人間を、御自身の主権を地上に実現するために創造されました。それゆえ、その任務に逆らう者や、怠慢な者に力や富を与えないのは当然なのです。例えば、あるデパートがある都市に支店を出すことに決めて、ある社員を送り込んだが、まったく働かず、会社に損害を与えることばかりをすれば、その社員の報酬を減らし、ひどい場合はクビにしてしまうでしょう。しかし、よくやっている社員には、高い報酬を与えて励ますでしょう。

 たとえ、神を知らない民であっても、神の命令を守り誠実を愛する国民ならば、神は祝福を与えます。そのよい例は日本です。概して、日本人は、勤勉で実直でした。ですから、神は祝福を与えたのですが、このような徳を失うときに、日本は祝福を失うでしょう。

 5.相続−この契約はただ一代限りのものではなく、相続されるべきものです。

 なぜならば、人間の一生は短いので、神の働きを実行するには代々契約を守る子孫を育てなければならないからです。ここに教育の問題が出てきます。

 現代のクリスチャンはこの相続の問題についてほとんど無知です。何故家庭が与えられたのか、何故子どもが与えられているのか、よく考える必要があります。アダムが創造された時、第一の命令は「地を治めよ。」(創世記1:18)でした。

 つまり、アダムが造られたのは、神の創造を完成させるためでした。神は5日で他の被造物を造り、6日目に人間を創造され、その被造物を人間の手に委ねました。 

これは、例えとしてはあまりよくないのですが、子どもが、箱庭を作って、最後に蟻を入れるようなものです。環境を整えて、最後に人間にバトンタッチして「いいか、任せたぞ。」と言われたのです。その後、助け手としてエバが与えられました。 

ですから、結婚は本来、神の主権を地上に打ち立てるためにある制度なのです。また、子どもは、その働きを継承するために与えられたのです。ですから、イスラエルにおいて、相続財産の分与は、敬けんな子どもに限られたのです。俗悪な兄エサウはしりぞけられ、敬けんな弟ヤコブに相続がわたったのです。今日でも同じ事が言えます。クリスチャンは、代々にわたって、神の御心の実現のために働かなければなりません。

そのために、教育の基本は子どもに対して「全身全霊で神に服従すること」を教えることなのです。そして、神の働きが前進するために、財産を敬けんな子どもに残し、神の国の働きに役立たせなければなりません。

もしそうでなければ、キリスト教は毎世代子どもの不信仰に悩まされ、けっして三代四代と発展する働きができません。毎世代、新たに路傍伝道して、教会に新来者を招かねばならないのです。そして、その新来者も家庭のことについて教育のことについて、正しい教えを受けないので、次世代を失ってしまうのです。

このような不経済なことを続けていては日本はいつまでたっても異教国です。神様は、伝道は「家庭中心」だ、と仰っています。「あなたの子どもたちにこれらの戒めを教えなさい」と繰り返して申命記において命じておられます。家庭は次世代の戦士を養成する場なのです。

 今日の教育は、ヒューマニズムという人間中心の教えです。このような思想を学校において洗脳されているのですから、子どもたちが教会と家庭において頭の中で二重構造が出来るのも無理はありません。学校で教えられることを、すべて聖書によってチェックできるようにならなければ、子どもはあたかも青いペンキを塗ったゆで卵のような状態になります。教会において青いインクを塗られるのですが、ほとんどの時間を過ごす学校やテレビなどでヒューマニズムを教え込まれるので、中は真っ白のままなのです。

神が創造者であるならば、あらゆることの解釈は神に従わなければなりません。親がこの問題意識をもって長期的ビジョンを持たなければ教会の未来は絶望的です。その点で、イスラム教は賢いのです。シンガポールでは公立学校に通うことは義務なので、夜にイスラム教の学校に通わせます。そしてイスラムの教義をしっかりと教え込むのです。

 さて、キリスト教の世界的拡大は、神の御旨であり、アダムに与えられた「文化命令」及びキリストが弟子たちお与えになった「大宣教命令」の実現でした。

その歴史の中で多くの問題・罪があったわけですが、総じて見れば、世界中に神の律法が広められ、人身御供が止み、未亡人が夫の火葬の火の中に飛び込んだり、民の心臓を取り出して神に捧げるというような悪魔的な風習が世界から消えました。 

かなり前のことですが、あるテレビ番組で、インカ帝国の近くにある比較的小さな文明の遺跡が発掘されて、その様子が報道されていました。驚いたことに、その帝国の宗教では、かなり頻繁に人身御供が行われており、神殿の500本の柱の一つ一つの下から若い女性の骨が出てきたのです。彼女らはその柱を抱き抱える形で生き埋めにされたのです。

宗教は、価値を教えるものです。邪教とは、人間の価値を正しく見積もりません。人間が安っぽくなるのです。人間よりも牛を尊んだり、犬を尊んだりします。しかし、キリスト教は、「人間は一人一人が神に似せて造られた極めて尊い存在である」と言います。人間は他の動物と截然と区別されるべきだと、聖書は主張します。神の子キリストは「人間のために」十字架にかかって死なれたのです。神御自身が死なれるほどに人間とは尊いものなのだと聖書は語ります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)

イエス・キリストはこう言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)神は、世界中の人々が真理を知り、自分の本当の価値を知ることを望んでおられるのです。






ホームページへ