それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。・・・こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男同士で情欲に燃え、男が男とはずべき事を行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(ローマ1章)
同性愛の原因は、偶像崇拝にあると聖書は述べています。そして、偶像崇拝を止めずにあくまでも罪を犯し続けた結果、神がその人々を「汚れに引き渡された(=見捨てられた)」ためにホモになるのです。ホモの原因は、神に対する執拗な反抗にあります。ホモは神に対する入念な敵対行為です。
−−心理学のワナ2−−
聖書は、「人間は契約的存在である」と言っています。つまり、神はアダムを造り、彼と契約を結ばれました(ホセア6:7)。しかし、アダムは契約を破ったために、神に呪われました(創世記3:17)。人間は誰一人としてこの契約から逃れることはできません。人は、契約を守る時に祝福され、破る時に呪われるのです(申命記28章)。それは、来世においてだけではなく、現世においても同様です。人間の状態を決定するものは、このような神の契約的お取り扱い以外にはありません。なぜならば、神は万物の主であり、万物を支配しておられるからです。
しかし、神を否定した人間は、神抜きで人間の幸不幸を決定しようとしました。つまり、神の契約的お取り扱いとは無関係に人間は幸福になれるという理論を作り上げました。それが今日流行している心理学です。現在の不幸な精神状態の原因を何か外部のものに探すというのが、心理学の解決法です。例えば、過去のある経験が原因でこうなったとか、回りのこの人が原因でこのような精神病になった、などと考えるのです。これは、聖書の主張とまったく正反対の教え−環境決定論−です。聖書は、「原因は契約違反にある」と述べています。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わないなら、・・・主はあなたを打って気を狂わせ、・・・気を錯乱させる」(申命記28:15−18)。精神病の原因は、神の律法を破ってそれを悔い改めないところにあるのです。
神は、御自身の命令を破り、それを悔い改めない人にまで幸せをお与えになりません。むしろ、その人に大きな問題をお与えになります。そして、一定期間、その人が立ち返るまで待たれます。しかし、その人が最後まで悔い改めない場合は、その人を殺されます。それは、その人が神の主権を侵害しているからです。神の命令を破ることは、「神様、私はあなたの主権を認めませんよ。私は私の主権者であり、私は自分の思うままに生きるつもりですよ」と言うことなのです。これは、国家の例で言えば、クーデターなのです。神の律法を無視して、それを破り、しかも悔い改めないことは、神を主権者として認めない行為であり、あのオウム真理教のように治外法権を主張することに等しいのです。クーデターを企画している者に寛容な国家などこの世にあるでしょうか。自分の体にガンがあるのに、それを放置しておく人はいるでしょうか。主権者にとって、主権を脅かす行為は絶対に許せないものです。それは、その主権者の死を意味するからです。主権を主張する者同士は、けっして和解できません。どちらかが倒されるまで、戦いは続くのです。神は万物の創造者であり、主権者であり、あらゆることにおいて絶対主権を主張されます。それは、絶対者として当然のことなのです。ですから、神の主権を一部でも認めないことは、神に対する戦争行為であり、神は最終的にその人を滅ぼされます。したがって、罪を犯しながら、それを悔い改めないすべての人は、たとえ、その人がクリスチャンであると自称し、他の人もその人をクリスチャンであると認めていても、滅びるのです。その人は、神の主権を犯し、自分の主権を主張しているので、最終的に地獄に行きます。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、どん欲な者酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(第一コリント5:9ー10)。
ある人は、このように言うかもしれません。「神は寛容なお方なので人を地獄に落とすようなことはなさらないのではないですか」と。たしかに、神は寛容なお方です。神は、人が悔い改めることを長い間忍耐してお待ちになります。神は、怒るに遅い方なのです。これが愛です。神の愛とは罪人を赦すために長い間悔い改めを待つことなのです。しかし、このことは、いつまでも裁きをつけないで放置しておくことを意味しません。すでに述べたように、罪とは、主権の侵害であり、クーデター行為なので、それをいつまでも放置することは不可能なのです。「主は決して罰せずにおくことはしない方」(ナホム1:3)。神は、絶対者なので、万物においてご自分の絶対主権を確立することを執拗に求めておられます。神は、どのような領域においても、御自身に並び立つものをけっして許しません。「あなたが鷲のように高く上っても、、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き下ろす」(オバデヤ4)「主は、あふれみなぎる洪水で、主に逆らう者を滅ぼし尽くし、その敵をやみに追いやられる」(ナホム1:8)。
罪を犯している人が精神的健康を取り戻し、幸せになるにはどうしたらよいのでしょうか。それは、自分の過去のことをほじくりかえしてみることでも、誰か他の人や団体を恨んで仕返しをすることでも、怒りを誰かにぶつけて自分の感情を解放することでもなく、ただ、真の神に罪を告白し、それを悔い改め、神の主権を認めることです。神は、あなたの罪をイエス・キリストの上に負わせ、それを十字架上で処罰して下さいました。そのことを信じるなら、神は、あなたのことを「神の主権を認めた人」と判断され、あなたを受け入れられます。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめます」(第一ヨハネ1:9)。