愛と再建
救いは値なしの恩恵によりますが、聖化は律法への服従によるのです。そこには努力の要素が加わります。神への忠実な奉仕は努力なしでは成り立ちません。
もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。・・・主は、あなたのために、あなたの穀物蔵とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。・・・主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。(申命記28章)
インターネットでリコンストラクションに反対するホームページを見ましたが、支離滅裂な論文でした。リコンストラクションを故意に誤解し、中傷していました。「リコンストラクションは、弟子訓練を嫌う。なぜならば、彼らは、キリストの十字架の道を拒むからだ。かれらはモーセ律法によって支配ができると考えている。」
真理に逆らう者は、逆らう行為によって自らの醜態をさらすものです。なぜならば、彼が神に対して逆らっていることが明らかになるからです。話せば話すほど、自分の姿が明らかになってくる。
しかし、再建派の実情を見ると、いわゆる「愛の問題」において重大な欠陥があると考えても間違いではないでしょう。
十分な警告や訓戒なしに、人の罪を、暴露し、それを公然と責め、その人を辱める、このような行為が愛の行為であると言えないのは言うまでもないでしょう。罪を責める者は、自分にその罪がないことが前提となっているはずです。それが、モーセ律法の教えではないでしょうか。「まず、罪のない者から石を投げよ。」
また、訓戒や矯正は、十分な配慮と忍耐を前提としなければならないでしょう。やたらと人を責めたてることが相手との断絶を生むことは、この世の人でも承知していることではないでしょうか。
愛がなければ、律法を守っても無駄だ。自分を焼かれるために火に渡しても無駄だ、とパウロは述べています。
「愛は、人の咎を覆う」のです。暴露するのではありません。出来る限り、その人の罪を他人の目から隠そうとするものです。マリアをかばったあのヨセフのように。
暴露するのは、最後の最後になってからではないでしょうか。相手が頑固にも悔い改めを拒んでいることが明らかになるまでは、忍耐して待つように命令されているのではないでしょうか。
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