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世は教会の光か?



(Q)基準とそれと逸脱している振る舞いとの区別の放棄は、教会にとっては不可能なのである。ここに聖書の権威下にあるキリスト教会の境がある。この問題についてその教義の基準を変えなさい、と教会に迫る者は教会を分裂へと追い立てていることを、十分に知らなければいけない。何故なら、その要求に負けて、同性愛的実践が、聖書的基準から全然逸脱していないかのように扱うこと、又、同性愛的共同生活を結婚と並んで個人的な愛の交わりの形として容認するようなことが、仮にあったとしたら、そういう教会はもはや御言葉の上に立っておらず、その一致した証言と対立しているのである。教会がその方向へ一歩踏み出せば、それはもはやルタ−的宗教改革のあとに従う教会ではない。

(A)ハレルヤ!!このようなメッセージをどしどし聞きたいものです。  今日の教会の「コンテクスチュアライゼーション(文化脈化)」なる謬説によって、教会は、自らが「世の光」となるのではなく、世が「教会の光」となってしまっています。

 日本人がよく耳にする言葉に、「それは常識を外れている」という言葉があります。たしかに、日本人が大切にしている規則には注目すべきものがあって、それを無視しろということではありません。他人を思いやることから生まれた様々な習慣があり、これを無視することはできませんが、しかし、様々なことにおいて日本人の常識を聖書の教えに優先させるのは、おかしいのではないでしょうか。クリスチャンは聖書の教えよりも高い規準などは存在しないことを認識すべきでしょう。ですから、自分がこの世の人々に合わせて彼らの好意を受けることを期待するのではなく、あくまでも、聖書にしたがったものの考え方や行動を示して、それが「常識を外れて」いても、または、相手のニーズよりも次元の高いものであっても、神の御心ならばそれを説き続けることが大切ではないかと思います。

 あるアメリカ人宣教師に聞いた話ですが、彼が日本に来た時に、同僚の宣教師にこのように言われたそうです。「日本では、けっして難しい教理を教えてはならない。簡単な教理と信仰の体験談(あかし)でメッセージを満たさなければならない。」日本の伝道はこのような「愚民政策」によって、最初から骨を抜かれていたのです。

 言葉にしても、よく「教会用語を使えばこの世の人はクリスチャンは特別な人だと考えてしまう」という意見を耳にします。たしかに、伝道においてわざわざ難しい専門用語を使う必要はありません。しかし、クリスチャンが使用する言葉が(それが聖書に基づくものであれば)一般の日本人の使わない言葉であってもよいではないですか。むしろ、一般の人々が教会の言葉を取り入れていけばよいのではないかと思います。ヨーロッパはこのようにして作られた言葉がたくさんあります。ルターの聖書がドイツ語の基礎を築いたように、日本の教会がより高い質の聖書を翻訳して、日本の言葉の基を作っていけばよいではないかと思うのです。

 「救いとは文化全体を包括するものである」ことを教会は忘れてしまいました。魂の救済のためならば、形式や言葉はどのようなものでもよいとして、こちらの基準をどんどん下げていくのはいかがなものでしょうか。このような傾向が、教会成長学にはあると思います。日本に於いて教会成長学の中心的役割を果たしているある学者はこのように言いました。「教会では、若者を引きつけるために、礼拝の前にハードロックのバンドに演奏させて、気分を高揚させるべきだ。」

 今日、教会音楽において、若者の「受け」をねらってどんどん基準が下がっているのですが、このような傾向の背景には聖書的ではない伝道観があると思います。教会が若者の機嫌をとっていろいろやったにもかかわらず、逆に、今日では若者が教会離れをしていて、牧師がまったく足りないという事態が現れています。教会は、根本的な所から、つまり、神学的な面から、自らの立場を吟味してみる必要があるのではないでしょうか。  

1.まず、「大宣教命令」はいわゆる「伝道命令」ではなく、「弟子作り」であったことを認めること。つまり、ただ伝道して天国に行ける人々を生み出していくことではなくて、その「国民をキリストの命令を守る弟子としていく」ことなのです。つまり、仕事・家庭・学校・・・あらゆる領域をキリストの御心に従わせるように指導していくこと。ですから、あらゆる領域の基準は聖書に存在することを明確にしなければなりません。聖書はただ(狭義の)救いのための書物(つまり、伝道して人がキリストを受け入れて天国に送り込むための書物)ではありません。それは、あらゆることの基礎なのです。聖書は音楽とはいかにあるべきものかを明確にしています。いかなるものにも、内容にふさわしい器があります。少なくともハードロックが神礼拝にふさわしい器であると考えることはできません。

2.「日本の弟子化は成功する」と確信すること。キリストが「あらゆる国民を弟子としなさい。」と命じられた以上、成功は約束されています。ですから、教会はこちらが真理を妥協せずに提示すれば、必ず相手がこちらに近づいてくることを確信しなければならないのです。日本の文化は必ずキリストによって聖められるのだと確信しなければなりません。それには長い年月がかかるかもしれません。時は神に委ねるべきです。その年月を縮めようとして、いろいろな異なる教えに手を出すべきではない。あくまでも、教会は御言葉をまっすぐに教えるところから離れてはならないのです。心理学や教会成長学や霊の戦いなどといった、ヒューマニズム的即効薬に手を出してはならない。パウロはエペソの人々と別れる時に、自分は神の計画の全体を彼らに伝えたのでもはや責任は果たしたと述べました。教会の責任は教会の人数を増やすことではなく、神の計画の全体を正しく伝えることです。これ以外のことを目的にすべきではない。ですから、トピックメッセージだけではなく、モーセ五書を含めて聖書の講解をしないと、教会はどんどん弱くなります。教会が強くなるのは、聖書に啓示された神の御心をまんべんなく伝えることにあります。信徒の興味とか関心を優先させず、難しいからといって信仰信条を教えないというのではなく、むしろ、その難しい所まで高めるために工夫していくべきではないでしょうか。

 軽薄短小の時代だと言われはじめた時に、ある教会においてカルヴァンのキリスト教綱要の読書会がなくなり、その代わりに、「ゴスペルミュージック」の賛美集会になりました。もちろん賛美することが悪いというわけではありません。しかし、本を読むことが嫌いな若者が増えてきたから、教会もそれに合わせて本を読まないようにしようというのはどうでしょうか。

 「最近の若者は本を読むことが苦手だからそのような難しい本を読むのは止めましょう。」というのではなく、「苦手ならば、本を読む楽しみを学びましょう。」でよいではないか。「あまり集まらない集会をしても意味がない」のではなく、「神の命じておられることならばやりましょう。」でやっていくべきではないか。私の経験では、そのような読書会から多くの貴重な働き人が生まれました。私が大学に入ったときに、私は実の所、聖書にあまり興味がなく(本当は漫画研究会かバンドをやる予定でした)、すぐに退部する予定でした。しかも、合宿となれば、遊び中心でやるものと期待していたら、連日聖書研究と神学の学びで、もうこんなクラブはやめたいと何度も思いました。しかし、参加するうちに、このような学びがいかに貴重であるかがわかり、3年生の時には部長になって率先して活動するようになりました。この聖書研究会は当時、本当にリバイバルの時で、多くのドラマと感動がありました。多くの人々が救われ、現在、彼らの多くが牧師や伝道師になって活躍しています。また、教会の学生会の会長をしていた時に、ピクニックやどこに行く時でも、必ず聖書を読む時を持ったら、その中から今日ではきわめて有能なキリスト教書物の翻訳者で、牧師となった兄弟を含め多くの活動的な人々が救われました。また、当時学生会はリバイバルの様相を呈し、多くの人々が救われて素晴らしいキリストにある交わりを持っていました。

 このような経験から、私は「教えに関して妥協してはならない。教会を燃え立たせるのは、正しい信仰と教育に基づいた健全な交わりである」と確信しました。教会の熱をさますのは、難しい教理ではなく、罪です。罪があれば、聖霊は教会から去ります。

 さて、偽りの終末論によって悲観的にされ、無律法主義によって基準を失った今日のキリスト教を、燃え立たせてリバイバルに導くのは、正しい教理の確認です。自分の教会の教えは聖書及び歴史的キリスト教信条から逸れていないか確認する必要があるでしょう。健全な教理を確立せずに「祈りだ」「賛美だ」「いやしだ」「霊の戦いだ」「心の解放だ」「異端対策だ」と言っても、何も始まらないでしょう。なぜならば、サタンが最も攻撃するのは「教理」だからです。「祈りによる勝利。解放。霊的高揚」と叫んでいても、「世界はこれから反キリストの支配下に入って、教会はますます弱くなっていく」と信じていればどうして魂が「高揚」するのでしょうか。たとえ現在の日本がサタンにやられているように見えても、神の目から見れば、教会は勝利に向けて前進しているのです。明治時代に日本の基礎を築くのにクリスチャンが大変貢献したことは隠れた事実です。フルベッキはその中心でした。内村鑑三は明治の若者たちに大きな影響を与えました。これらのことから考えて、私は、神が日本をクリスチャンの国にしようとしていると確信しています。日本が鎖国をしたのもキリスト教対策からでした。そして、鎖国を解いたのも、キリスト教徒たちでした。明治政府の基礎の多くの部分を築いたのもキリスト教徒で、戦後の日本の基礎を築いたのもアメリカのクリスチャンたちでした。  このように見てくると、神の強力な御手が日本の上に働いていることが判ります。神の意志は、強引なまでに、日本を変えようとしています。この御手の力に対抗できる者は誰一人いません。日本は必ずキリストの弟子になります。サタンは日本から必ず出ていきます。






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