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近代の挫折





 現代は、近代哲学の試みが行き詰まった時代です。近代は、神からの逃避、人間王国の建設を試みた時代でした。しかし、この試みは、失敗したことが明らかになりました。  とくに、現代人が大切にしている進化論はこの土台を完全に崩したのです。進化論に立てば、「宇宙の支配者がいて、その存在が法を定めた」という自然法のモチーフは、通用しません。人間を越えた高度な法が支配しているのではなく、弱肉強食、自然淘汰、適者生存:むきだしの力こそが、勝者である。このような世界観は、必然的に倫理的世界を創り出すことはできません。思想は、必ず実を結びます。何を信じているかは、何年か経てば行動となって現れます。進化論は、どうしても、人を絶望に導かざるをえません。

 自然法が通用した時代(ダーウィン以前)を水戸黄門の時代としましょう。つまり、悪い支配者が領民をいじめているが、黄門さまが現れて、処罰してくれる、最後はハッピーエンド。このような世界観を自然法の時代には信じることができました。宇宙の支配者が、その法律にしたがって、世界を公平に裁いてくれるとの信仰を、昔の人々は持っていました。日本でも、「おてんとう様が見ている」といった言い回しがありました。しかし、進化論は、このような楽観主義を哲学的に破壊します。つまり、水戸黄門のたとえで言えば、「悪い支配者が無辜の領民をいじめていた。そこで彼らは一揆を起こしたが、力が弱かったので、滅ぼされてしまった。この悪い支配者は領民の土地を没収し、ますます栄えて幸せな生涯を送った。おわり。黄門様?そんな人はこの世にはいません。」進化論の世界を映画かテレビのドラマにしたら、視聴率ゼロでしょう。悪者でも正者でも勝つか負けるかは強いか弱いかで決まってしまうのですから。人間は神の似姿として造られたので、このようなストーリーに甘んじることはできないのです。そのようなストーリーを見せられると、割り切れないものを感じます。

 しかし、進化論はこのような世界観です。現代人は、進化論が自殺的哲学であることを知りません。進化論は、一時的に人間を解放してくれます。特に、フリーセックスの哲学的土台を提供してくれるのです。進化論の大祭司と言われる、ハックスレ−はこのことをはっきりと言いました(Huxley, Ends and Means: An Inquiry into the Nature of Ideas and into the Methods Employed their Realization (N.Y.: Harper and Bros., 1937). p. 316.)。しかし、最終的には、人間を絶望に陥れます。なぜならば、進化論は、相対主義を絶対化するからです。

 法律の世界における進化論の影響について、イェール大学教授 Fred Cahill は次のように述べました。「19世紀の中頃の進化論の登場は、アメリカの法律学にとって極めて重要な出来事であった。・・・これによって、ダーウィン以前の特徴であった合理的・演繹的パターンは、経験的・進化論的アプローチに変わった。このアプローチは今日まで続いている。」そして、ハーバード・ロー・スクールのクリストファー・ラングデルがダーウィン主義を法律教育に適用し始めた1870年代にこのような変化が実際に始まりました。ラングデルは、法律の基礎的原理とは、長年にわたって進化し発展した過程の結果であると考えました。彼の以前において支配的であった考えによれば、法律の基礎的原理は不変であり、すべての法律はこの不変の原理の上に立っていました。学生たちはこれらの法的原理を適用する方法を学びました。しかし、ラングデル後は、基礎原理は裁判官が法廷において徐々に発達させていくものだと考えられるようになりました。そしてついに、最高裁判事ヒューズが述べた「裁判官が述べたことが憲法なのだ」という言葉に現れた相対主義が支配する状況になったのです。(参照:John W. Whitehead,"The Second American Revolution" (Westchester, Illinois: Crossway Books, 1982)。アメリカにおいて、基礎原理は主に自然法を意味しました。この自然法は、完全に聖書律法であったとは言えませんが、かなりの部分で聖書律法の影響がある原理でした。かつて、裁判はこの原理に基づいて決定されていましたが、今や、誤り多き人間の意見によって決定されています。

 相対主義は、人間を解放するどころか、人間を人間の奴隷とするのです。17世紀に、ラザフォードは、「法は王」と言いました。王が勝手に政治を行うのではなく、法が王をも支配して、わがままによって国が動かされないようにすることが改革の目的でした。しかし、現在、相対主義によって、人間の恣意性がふたたび優位性を獲得しようとしているのです。これはゆゆしき問題だと思いませんか。進化論はハイアー・ローを否定することによって、人間の恣意性に道を開き、ついには、強い者が弱い者を強圧的に支配する世界を造ることになるのです。

 「十戒」という映画の冒頭で、次のような趣旨の解説があったように記憶しています。「もし人間が、この神の法を捨てるならば、人間の法に支配されるのである」。神の法は、理にかなった交通規則のようなものです。青ならば、進んで、赤ならば止まる。この規則を守っていれば、これから九州にいこうが北海道までドライブしようが、自由なのです。秩序ある自由こそ神の法の目的です。しかし、人間の法は、強者の都合で決定されます。ですから、それを交通規則にたとえて言うならば、「赤でもわたっていい。しかし、九州へは行ってはダメ。」ソ連の法はこのような法律でした。やたらとつまらないところで人々の自由を束縛しておいて、フリーセックス、離婚、中絶などを自由化しました。

 聖書は、人間の諸制度に限界を設定しています。それぞれが、神の前で持ち分があって、それを越えて他の制度を支配してはならないのです。国家・家庭・教会という三つの主要な制度は、それぞれが神の前で責任を負っており、国家が家庭の問題に干渉できないし、教会が国家の仕事をすべきでもない。いままで歴史上様々な問題は、このような限界を侵害したから起こったのです。今日の国家は、この限度を越えて、国民の生活のあらゆる領域を支配しています。あらゆるものを自分の所有物と考え、すべてのものから税金を取ることを当然のように考えています。今日の神は国家です。では、なぜ国家が神になったのか。それは、人間の依存心が原因なのです。この点についてはまた別の機会に述べたいと思います。

 とにかく、私たちは進化論の破壊性に気づく必要があります。そして、西洋社会を自由化し、秩序だててきた(日本も、この自由と秩序の恩恵を日本国憲法を通じて享受してきました)基礎的原理を回復する必要があるのです。しかし、基礎的原理とかハイアー・ローといったものをどのように見つけるのか、という問題があります。それは、人間の内側から出るものでは、だめです。なぜならば、人間の恣意性を克服するものとしてそのような原理を求めているのですから、恣意性の影響を受ける人間的原理ではだめなのです。人間の内側から出ないもの、つまり、啓示的原理でなければ、今日の相対主義を克服することはできません。

 ルネッサンス以来、人間が避けようとしてきた聖書律法こそ、今日の世界の問題を解決できる唯一の法なのです。世界は、神によって創造されたのですから、創造者の意見を聞いて、その指示に従うのが最も理に適った歩み方なのです。世界に存在するものに対する意見で、神の意見よりもすぐれたものはありません。なぜならば、それらは神が創造されたからです。

 ラジカセを買った時に、取り扱い説明書を読みます。どの取説を読みますか。もちろん、それを製造した会社の取説を読みますよね。それと同じように、宇宙は、神が造ったものです。ですから、神の取説である「聖書律法」を学び、それを社会に人生に適用するのが最も理に適った行動なのです。

 R・J・ラッシュドゥーニーは、極めて優れた聖書律法の解説書「聖書律法綱要」を1973年に出版しました。聖書律法を具体的に現代社会に適用するにはどのようにしたらよいかについて書かれています。お読みになりたいかたはご連絡ください。ときどき1節ずつアップしますので、それも参考にしてくだされば幸いです。

 特に、昭和30年代生以降の人々に共通して感じるのは、相対主義に疑いを持たないという傾向です。絶対なる基準とか、正と反の対立、善悪の区別、価値と無価値の区別・・・このような、絶対的思考を嫌う傾向が彼らにはあるのではないか。「相対的なものを主張することは、寛容であり、愛である」との感覚は、私たちの世代に特徴的です。もっとも、日本人が不運なのは、絶対だといわれてきた天皇制の価値観が戦争によって否定されたことです。あの挫折が、戦後の日本人を相対主義者に変えてしまったのでしょう。何かのためにいのちを捧げる、だとか、これこれのお方こそ絶対である、との教えに対してアレルギーになってしまったのでしょう。

 しかし、偽りの絶対者が否定されたからといって、絶対主義自体に欠陥があるわけではないのです。否定されたのは、偶像であって、本物ではなかったことを忘れてはなりません。

 なぜならば、「相対主義にとどまっていても、けっして未来はないからです。」

 権力は、相対主義を永久に許しておくほど、オメデタイ存在ではありません。法治主義とは、そもそも、権力の恣意性を減らすことを目的として生まれたのではないでしょうか。権力のわがままをいかにしてくい止めることができるか。これこそ、市民革命の主題だったのではないでしょうか。血を流して戦うほどに、権力の支配欲は強力です。もし私たちが法治主義の原則を失えば、それをどのように取り戻すことができるのでしょうか。相対主義は、幻想であり、このような権力の強大な支配欲と戦うことはできません。ヒトラーの侵略欲に対して、宥和政策では対抗できなかったのです。スターリンの支配欲に対して西側が譲歩したためにバルト三国は彼の手に入りました。相対主義とか、絶対平和主義といったヤワな思想では、この狼が徘徊し、サメがうようよ泳ぎ回っている現実世界ではカモにされるだけです。権力を有する者が、権力を永続化・絶対化させたがった場合に、どのような防御策を取るのか。どのような思想に基づいてそれらを防止することができるのか。

 私たちが毎日歩いている地面がもし、ずぶずぶとぬかってしまう柔らかいものであれば、私たちは前に進むことも、家を建てることもできません。また、私たちの使うものさしがゴムでできており、自由に伸び縮みするならば、けっしてものを正しく計測することはできません。この世界は、価値有るものと無価値なものがあるのです。善と悪があるのです。絶対者がいるのです。そして、この絶対的な価値観によるのでないかぎり、人間の恣意性と対抗することはできません。

 オウム真理教は、「いかなる宗教であれ、宗教を信じることは尊いことだ」といった相対主義者の妄想を破壊しました。宗教とは、本質においてクーデターであり、権力を志向するものです。








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