新たな社会倫理とは
日本の社会の倫理は共同体を成立させるために作られたものであり、モーセの十戒も、イスラエル社会の成立のために存在しました。
ただ、この二つが違うのは、日本の倫理が人為的に作られたものであるのに対して、モーセの十戒は、神が、この地球上に神の主権をたて、神の共同体を形成するために、神によって与えられた、超越的規範である、ということです。
新約聖書においては、旧約聖書の民族の枠組みは取り払われています。そして、旧約聖書において与えられたイスラエルのための倫理は、全世界の民族に対して適用されると、パウロは主張しています。
「もはやユダヤ人も異邦人もない。主は、すべての人の主である。」
「信仰は律法を完成する。」
イエスもパウロも、「律法は廃棄されるべきものではない。」と新約の民(クリスチャン)に述べています。
また、パウロは、「律法にあるように、・・・しなさい。」という命令を異邦人にも与えています。
つまり、全世界の民族にとって、真の共同体建設のための基準は、モーセの十戒であると。
日本において社会構造が変化して、旧来の様々な倫理がもはや適用できなくなっている今日、では、どのような倫理を社会に適用すべきかということが焦眉の問題となっています。旧来の儒教や家制度の倫理、国家建設のための倫理などは、もはや日本の社会の基準とはなりえない状況となっています。
これらは、人為的であるがゆえに、時代が変われば捨てられる運命にあります。しかし、宇宙の創造者である神の倫理は、いつの時代、どの民族にも適用できる普遍性をもっており、すべての国家、民族、人間に適用できる、この倫理基準によって、行動するならば、あらゆるものが、秩序と調和と自由を享受できる、というのが聖書の主張です。