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旧約聖書の神と新約聖書の神は違う神か?



 旧約聖書の神は、厳しい、裁きの神で、新約聖書の神は、優しい、愛の神である、と考えるのは、誤りです。

 なぜならば、聖書は、「神は変化することがない。」と述べているからです。

 旧約聖書の神も新約聖書の神も同一の神であり、その本質は同じです。

 もし違うならば、その証拠を聖書から提示しなければなりません。

 ディスペンセーション(契約期分割)主義の神は、このように進化する神です。

 神は、ある時代においては厳しい律法を与え、ある時代においては、キリストの愛を与えた神である、と。

 このような神は、多神教の神であって、人間がその欲望にまかせて作り上げた「でっちあげ」の偶像神です。

 旧約聖書においても、新約聖書においても、神は律法を与え、それに違反した者を裁く裁き主です。

 しかし、旧約聖書においても、新約聖書においても、悔い改めて神に立ち返る者には、罪の赦しと恵みを与える神であるともしるされています。

 神は、常に完全な義を要求されます。そして、その完全な義は、キリストが身代わりに成就してくださったので、キリストを信じる人間は、けっして裁かれることがないのです。

 それは、二つの方法によります。

 (1)キリストは信仰者の代わりに、律法を完全に成就した。

 これによって、信仰者は、キリストにおいて、律法を完全に守ったとみなされます。

 (2)キリストは信仰者の代わりに、律法の刑罰を受けて死んだ。

 これによって、信仰者は、けっして律法を破っても刑罰にあうことがないのです。

 それでは、信仰者は、罪を犯す自由が与えられたのか、ということになりますが、そうではありません。信仰者に対して神が期待しておられるのは、神の御心にかなった生活をすることです。

 ですから、信仰者も律法に反する生活をすれば、神から懲らしめ(刑罰ではない)が下ります。これは、信仰者を滅ぼしてしまおうというのではなく、信仰者が神の子どもとしてふさわしい者に変わるための訓練なのです。

 信仰者は、神から一生の間訓練を受け続けます。それは、神の愛から出ているのです。

 もし、訓練されない子どもがいれば、それは私生児であって、親は、彼を愛していないのである、と聖書は語っています。つまり、神は信仰者を自分の子どもとして愛しておられるのです。その愛の故に、訓練をし、懲らしめ、少しでもキリストに似たものに作り替えようとされているのです。

 では、どのような基準によって、信仰者は訓練されるのでしょうか。それは、神の十戒と、その下の細則によります。

 信仰者にはあらかじめ守るべき規範が与えられています。もし、そのような規範が存在しなければ、神は、事後法によって裁いたということになります。

 裁くためには、あらかじめ、裁く規則が言い渡されていなければなりません。日本の法律でも、法律に記されていない事柄については、国家は裁くことができません。もし、あらかじめ示されていない法律によって裁くならば、それは、リンチということになります。

 神は、必ず法律を制定され、それに基づいて厳密な裁きを行われる方なのです。

 ですから、今日律法は無効になっているので、クリスチャンは律法を守る必要はないという無律法主義の立場は誤りであるということになります。




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