両親の権威
箴言において、両親は子どもを懲らしめなさい。ムチを控えてはならないと繰り返して命じられています。
それではなぜ、両親は、子どもにムチをふるう権威が与えられているのでしょうか。
それは、両親は、神から家庭を統治するために任命されているからです。
両親は、結婚において、神の御前で誓約をします。そして、誓約した時点から、神に家庭を委託されたのです。
神が地球を支配する方法は、直接統治ではありません。代理者を立てて、間接的に統治されます。
アダムは、神に「地を治めよ。地を従えよ。」と命令されました。
神はアダムに地球の統治を委託したのです。
神は、両親に家庭を任せて、御心のままに家庭を統治するように責任を与えておられます。
それでは、どのようにすれば正しく家庭を統治できるのでしょうか。
それは、聖書契約を見る必要があります。
家庭に関する聖書契約の構造は、次の5つのポイントから成り立っています。
1.主権・・・主権者は神である。
2.委託・・・神は両親に家庭を委託した。
3.規則・・・神は家庭を治めるための法を制定された。
4.賞罰・・・法を守る者に褒美を、破る者に裁きを。
5.継承・・・法を守るものは両親の有形無形の財産を相続できる。
両親は、この枠組みにしたがって統治しなければなりません。それ以外の枠組みを想定することは、神の契約を捨てて、偶像と契約を結ぶことになります。
そこで、両親は、まず、主権者である神の制定された法、すなわち、聖書の御言葉を家庭に適用する責任が与えられています。
両親には、家庭の内部において、御言葉に従う者を祝福し、従わない者を罰する権威が与えられています。もし、両親が、御言葉に従わない場合は、神から直接懲らしめが下ります。
権威には責任が伴うのです。
両親は、子どもが神の御言葉に従うように、訓練しなければならないと、聖書において繰り返して、記されています。
「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22・6)
「これ(律法)をあなたの子どもたちによく教え込みなさい。」(申命記6・7)
「あなたはそれら(律法)を、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」(同4・9)
「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」(申命記4・10)
そして、この教育には、賞罰が伴います。
「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。」(箴言23・13)
「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」(同22・15)
子どもが御言葉に逆らい悪を行っても叱らないならば、それは愛情の欠如であると述べられています。
「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(同13・24)
「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」(箴言3・12)
両親が、賞罰の権限があるのは、神がその賞罰を与える権限を両親に与えたからで、それゆえ、この契約の規定に沿わない賞罰を加えることは絶対に禁止されているのです。
「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6・4)
ここにおいて、「おこらせる」とは、「主の教育と訓戒」によって育てないことを意味しています。つまり、私的な基準で賞罰を下すことです。
例えば、神の御言葉とは無関係な親の好み(東大でないとダメだとか、花形の職業につけ、とか、良家の子女と結婚しなければ世間体が立たないとか・・・など)によって怒ったり、ほめたりすることが、「子どもをおこらせる」ことなのです。
そのような両親の勝手気ままな刑罰は、国家統治で言えば、独裁であり、専制統治です。
自分の気分とか価値観によって勝手な統治を行うことは、神との契約の放棄であり、それゆえ、両親は神から直接裁きを受けます。
将来、子どもが信仰から離れたり、両親を敬わなかったり、犯罪者になったり、社会に迷惑をかけて親に恥をかかせるようになります。
「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」(箴言29・15)
聖書がはっきりと述べている教育方法を否定し、現代流行している世俗教育学に従うならば、その両親は偶像崇拝を行っているのです。
彼らは、主が立てた契約を放棄しました。したがって、彼らは神から直接の刑罰を、子どもの問題を通して受けます。
「自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言3・7)
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