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牧師制度について

 

<ご質問>牧師として主の働きに就くためには、本人の願いや、教会からの要請などにより牧師に就任することも、神によって権威付けられていると考えてよいのですね。

私は牧師になっている方々は皆、神からの何らかの直接的な(あるいは超自然的な召命感のような)働きかけを受けているものだと思っていました(実際にそのようなあかしをよく聞きます)が、そうでない場合もありえるということですね。もちろん、牧師として献身するためには、救霊などに対する強い使命感がなければ、現実的にはやれないのでしょうけれど。

 

<お答え>そうですね。どんなに牧師になりたくても、神の許しがなければなれませんから。ノンクリスチャンは、「神が許可する」、と聞いても信じないでしょうが、クリスチャンならば、日常的に、自分の意思が通らないということを体験させられ、そこで神の主権を痛いほど学ばせられます。例えば、普通ならうまくいく試験でもなぜか何年も苦労させられたり、自分の苦手な人や職業につかせられたり。

 宣教師として外国に赴任することを神から示されていても、何年もそれが実現しないでじらされたという証しをよく聞きます。

 

 普通の人であれば、すいすいと進む道でも、クリスチャンなるがゆえに、なぜか紆余曲折を体験させられるということが多くあります。

 三浦綾子さんも、病によって、神の摂理を学ばれたと証しされています。

 もし私たちが、自分の思い通りにものごとが進んだり、もしくは、ノンクリスチャンが思っているように、努力とか才能とか運とかによってだけ(つまり、合理的に)ものごとが進むような体験しかしていなければ、人は神を意識することなどなくなります。

 

 出エジプトにおいて、人々は、たかだか一週間でたどりつける道のりを40年歩かされました。ぐるぐると同じところも歩きました。

 砂漠や荒地の中ですから、水や食料も乏しい中を歩かされるという体験によって何を学んだかというと神の主権でした。

 この旅は、「人はパンのみにて生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によることを学ばせるためである。」と神は言われました。

 

 このような経験を通して、クリスチャンは、すべてこの世に起こる出来事は主の御許しがあって起こるということを実感するようになります。

 また、自分が出会う人々は、神が許されたから出会うことができたと考えるようになります。

 自分の上に立てられた人も、それは、単に偶然に上にいるのではなく、神が許されたから立てられているのだと知ります。

 イエスは、ピラトに向かって、「神の許しがなければあなたは何もすることができない。」と言って、ピラトがイエスをさばく権威があるのは、それが神から出ているからだ、つまり、イエスはご自分から進んで裁きを受けておられるのだということを言われた。

 

 さて、それでは、とんでもない人物が牧師として、または、指導者として自分の上にいる場合もあるがそれはどう考えたらよいのでしょうか。

 よくキリスト教が国教となっているような国では、尊敬されるからとか安定しているからという理由で牧師とかいわゆる「聖職者」(この世の、神の法に違反していない職業はみな聖職ですが)につく人がいますが、霊的な事柄に鈍感な人が牧師をやろうとすると、儀式を重んじて内容のない「形式宗教」を行うようになり、人々は霊的な糧に飢えるようになります。

 また、実生活において、平気で罪を行ったり、腐敗したことをやるようになります。

 

 パウロは、「だれにでも軽軽しく按手をしてはならない。」と述べて、こういった霊的に鈍感なエサウ的な人物が講壇に立つことがないように注意を促していますが、しかし、そういったことは歴史上頻繁にありました。教会は牧師を任命するときに、その人をよく観察して、聖書に定められた基準に合致しているかどうか、本当に召命があるかどうかを見分けなければならないでしょう。

 

 しかし、それでもこういった人々が講壇に立つ場合、教えを受ける立場の人々はどうしたらよいのでしょうか。

 

 牧師の召命もないのに立っていると明らかに分かるような人々、罪を犯しても悔い改めない人々が指導者として立っている場合、それを排除することは正しいことなのでしょうか。

 

 革命思想がヒューマニズムにはびこって以来、反逆が正当化されてきましたが、聖書は革命を認めていません。

 

 どんなにサウルが悪い指導者であっても、ダビデはけっして彼を殺そうとはしませんでした。

 サウルは油注がれた人である、彼をお立てになったのは神であるということを認めていたからです。

 

 もちろん、抵抗することが悪だとはおもいません。

 ですから、教会員は、牧師としてふさわしくない人に対して具体的な聖書的理由をあげて(!)、上位の人々つまり長老などに訴えることができます。

 

 長老や指導者を飛び越して訴えることをすべきだとは思いません。

 

 神は、被造物を支配する方法として、上下関係を定められました。領域領域にそれぞれ権威を定め、その権威に従うことによって集団を維持し、それを発展させるという方法を取られます。神がイスラエルと結ばれた契約の第二条件は上下関係でした。モーセに裁判を求める前に、それぞれ自分が属する小さなグループの長に裁きを求め、それでもだめなら、その上のグループの長に訴え、それでもだめならモーセにもっていくということをせよと命じられました。つまり、神の統治方法はボトムアップ式なのです。

 

 教会の訴えをきかないで頑固に居座りつづける牧師がいた場合、または、回りをイエスマンの長老で固めている教会指導者の場合は、可能な限りの合理的な手段を講じた後に神の直接の裁きを待つことになります。

 

 そして、教会員はその教会を去ることができます。

 

 クリスチャンは自由になるように召されたのであって、理不尽なことに縛られるために召されたのではありません。

 

 日本の社会は、封建的な部分があるので、指導者とか上位者に絶対服従を求められることが多いのですが、人間が人間に対して絶対服従を求めることはできません。日本人はクラブ活動などで、先輩後輩の関係から、こういったシステムにならされることが多いのですが、理不尽なことに黙っていることを奨励するのは奴隷の社会です。

 

 「夫が泥棒をするなら、妻は見張りをするくらいでなきゃだめだ。」ということを言う人もいますが、聖書は、泥棒をするような夫とは離婚することができると述べています。

 

 つまり、神の法を犯すような指導者は指導者の資格を失うのです。

 

 なぜならば、神の目的は、神の国の建設であり、神の法と義が隅々まで支配するような世界を造ることだからです。

 

 その集団にいて服従することが罪と不義を拡大し、神の国の建設にとって障害となるような場合は、そこから出る権利があります。

 

 かつて日本の家制度では、夫婦関係ではなく、親子関係が絶対でした。だから、嫁が理不尽を耐えることが美徳とされていたのですが、こういったものは美徳でもなんでもなく、偶像崇拝なのです。

 

 神の国の発展の基礎は、核家族にあるのであり、「それゆえ男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」ということが、社会の基礎となるわけですから、古い家制度は人を組織の奴隷とする制度であり、神の義を実現できる制度ではありません。

 

 日本の社会は、このような組織絶対主義がすみずみまで行き渡っており、合理性を追求したり、理屈を述べる人はアウトサイダーになります。だまって組織に服従せよ、と説くような人々と合わせることができなければ、落伍者とみなされます。

 

 しかし、キリスト教は、人間の自立を促す宗教であり、堕落した社会ウルから出て、約束の地に行けと命じられたアブラハムの旅立ちこそクリスチャンの原点なのです。