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聖書は快楽を禁止しているか?





 聖書は快楽を禁止しているのでしょうか。

「聖書では、子どもを作るため以外の性欲は禁止されているんでしょう。」

「おいしいものを食べるのは罪ではないのでしょうか。」

「酒は絶対にのんではならないというのが聖書の教えでしょう。」

このように質問する人は多いと思います。

しかし、このようなことを教えている箇所は聖書のどこにもありません。

性欲も、食欲も、飲酒も、みな、神が人に与えた祝福の一部です。

神は、人が幸せになることを望んでおられます。それは、霊的な幸せだけではなく、肉体的な幸せも含むのです。ギリシャ思想は、主に、霊的なものを高次なもの、肉体的なものを低次なものと分類しますので、肉体的な快楽や苦痛を超越することが高次なレベルの人間になるステップであると考えてきました。

キリスト教は、初代教会の時代から、ギリシャのストア派の影響を受けつづけました。禁欲主義のキリスト教の教えは、プロテスタントの中にも入りました。そして、人間の肉体的快楽を低次なものとして退けてきたのです。

 人間には、食を楽しむための舌が与えられており、肉体的な満足を得るために様々な欲望が与えられています。

 人間は、禁欲的に生きることによって神の栄光を表すという誤った考えがありますが、禁欲しなくてもよいものについて別に禁欲する必要はないのです。

 神は、人間に規則を与えました。これに違反していなければ、人間は本質的にいかなる人間的規則にも縛られないのです。

 規則とは、十戒とそれに続く細則、そして、それを応用した様々な律法です。

 よくクリスチャンは酒を飲まない、というのが常識化していますが、これは困ったものです。  というのは、日本人が、クリスチャンになりにくくなる障害になるからです。

 もし、酒を飲むことが罪であるならば、イエスはカナの婚礼の席で、水をぶどう酒に変える奇跡を行いました。イエスは、人に罪を犯させたのでしょうか。

 酒にしろ、おいしい食べ物にしろ、お金にしろ、それ自体を罪であるとするのは、環境決定論であり、自己満足・自己神化願望の現れです。

 あるオウム信者が、このように言いました。「ある時、性欲がばっさり落ちた。そして、もはや性欲は自分の心に上ってくることはなかった。」

 禁欲主義者の中にある究極の願望は、自分が人間以上のものになることです。つまり、自分がスーパーマンになり、あらゆる願望、性欲、食欲、金銭欲、などを超越した者になること、これが彼らの究極の願望です。

 つまり、禁欲主義の隠れた野心とは、自分が神になることに他なりません。つまり究極の傲慢なのです。人間は、自分が神の下に存在する被造物に過ぎないと謙虚に認める時に、本当に自由になり、正当な快楽を味わうことができるのです。

 聖餐式において、ぶどう酒を飲まずに、ぶどう液にしているのは、明らかな逸脱であって、敬虔な態度でもなんでもありません。

 物質は、それ自体に善悪はありません。例えば、包丁は、それ自体では、ただの道具です。しかし、それをどのように用いるか、その人の心によって、料理の道具にもなれば、人殺しの凶器にもなるのです。

 自然に存在するあらゆるものは、神の創造であり、それ自体に善悪は存在しないのです。それを利用をする人間のむさぼりが原因で、罪が発生します。

 食欲は、正しく用いれば、自分の健康に益しますし、楽しみにもなります。しかし、食べ過ぎたり、偏食することによって、自分の体を害することになります。人間は何でも好きなものを食べることができます。しかし、血を食べることは禁止されています。人間は、神の権威のもとにいることがこの律法のなかで示されています。

 性欲も、結婚の枠組みの中でのみ、自由に性交渉できます。それは、祝福として与えられているものです。それでも、月のさわりのある間だけは、性交渉は許されていません。ここにおいても、神の権威の下にいることが示されています。

 血はいのちの象徴であり、いのちはすべて神の所有なのです。

 夫婦交渉は、結婚の契約の更新の意味があるとある神学者が言いましたが、そうかもしれません。

 契約は、ただひたすらに、契約者のしあわせのために結ばれていますので、契約の更新の儀式に喜びが伴うことは自然なことなのです。

 神は性交渉において、夫婦の絆の強さを示しておられます。

 よく、ピューリタンは、禁欲的で、酒を飲まなかったといわれますが、これはまったくの誤りです。ピューリタンは酒を飲みました。

 カルヴァンは、給料の一部をぶどう酒の樽でもらいました。ルターはビールを飲みました。

 「酒に酔ってはならない。」とあるのは、酒に支配されるな、という意味です。なぜならば、その後で、「しかし、御霊に支配されなさい。」とあるからです。行きすぎた飲酒が禁じられているのです。

 知り合いの教会では、教会員は、皆教会に来るときに同じような紺か黒っぽい色の服を着るそうです。それ以外の服を着ると、不信仰者扱いされるということです。

 こういった神が定めていない法を設定することは、あきらかな人間軽視です。そして、そういった教会において指導者たちは、神になっているのです。法を決定する者は、その社会の神です。教会の神は、キリストであって、キリストが制定された法以外を法としてはならないのです。もちろん個々の教会において、その教会独特の環境ゆえ、秩序のために法が決定されるべきでしょう。しかし、その法は、神の法に照らして、常にチェックされる必要があるのです。

 世界において、神の法以外の法があってはならないのです。たとえあったとしても、それらは、神の法の下に位置しなければなりません。神の法が最終権威とならなければ、人間は、禁欲主義か、放蕩かどちらかに流されます。




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