クリスチャンが政治にかかわってろくなことが起きていないならば、仏教徒の大名が、犬を人間以上に敬ったために、とんでもない政治が行われました。イスラム教徒が政治を行って、悲惨な戦争をやっています。
だから宗教はだめだ、なんて言わないでください。
無神論者が政治にかかわってもろくなことが起きていません。スターリンやレーニンなどがやったことと言えば、社会党がやったことと比べものにならない。
無神論者でなくても、自由主義者が政治を行って2度の世界大戦が起きました。
結果とその原因を短絡的に結びつけても、つまらない議論にしかなりません。
聖書に立ってものを考えないクリスチャンが何をやっても、その人が信じているもの以上にはなれないのです。クリスチャンだと言われる土井たかこ氏や田辺元委員長、クリスチャン新聞の編集者、・・・これらの方々のご意見を伺っていると、とても聖書的な政治観を持っているとは思えません。クリスチャンだと自称していても、社会主義やヒューマニズムを信じていれば、彼らは社会主義者でありヒューマニストでしかないのです。もし、キリストの十字架を信じているならば、処女降誕も信じるべきでしょう。処女降誕も信じるならば、復活も信じるべきでしょう。聖書は一つの言葉なのです。それを分割して、つまみ食いをすることはできません。聖書を一つの言葉であり、それを神の御言葉であると信じるのでなければ、つまみ食いをして、自分の好きな部分や聖句を引用して「山が動いた」などと言っても、冒涜にこそなれ、神を証ししたことにはなりません。彼らは、ご都合主義者なのです。こんな人々が政治を行って失敗したからといってクリスチャンは政治をやってはいけないなんて、短絡的に結論しないでください。
「渋谷のY教会の牧師さん」のことなら、無神論者の牧師がいるくらいですから、クリスチャンの意見として引き合いに出すのは、かんべんしていただきたい。
「消費税が導入されれば、空気以外はみな税金がかかるというおそろしいことになる」と主張するのは当然ではないかと思います。
例えば、もし、自分が所有している車に対して、ある人(まったく自分と関係ない人)が、車の使用料を要求してきたら、どうしますか。「なぜあなたは私の車について使用料をとる権利があるのか。」と聞くでしょう。しかし、レンタカーの会社から車を借りて、その使用料をその会社から請求されたら、当然支払いますよね。なぜならば、その車はその会社の持ち物だからです。
国家が、自分の買った車に税金をかけてくるには、どのような根拠があるのか、国家は、この車に関しては、他人なのです。国家だから許されるというのは、理由になっていません。国家は、日本の国内に存在するあらゆるものは自分のものであると主張しているのです。これは、明らかに、聖書が規定している国家の定義と矛盾する越権行為です。日本国内に存在するものは神のものであって、神以外に万物に税金を掛けることができるものはいないのです。国家は、神の御言葉の範囲内においてしか税金を徴収することはできません。
国家の財政状態が悪いから、増税は当然である、と言いますが、そもそも、金の使い方がいい加減な組織が赤字になるのは当然なのです。
一年の予算を組むときに、父親が家族を集めて「おい、おまえたち、今年は何が欲しい。言いなさい。」と、メンバーの希望をもとに予算を組む家庭がどこにありますか。「ぼく、ファミコンと自転車が欲しいなあ。」「わたし、グッチのバッグと、ハワイ旅行。」「わたしは、今年は毛皮のコートと・・・」。「よし、それじゃあ、今年の予算は1000万だ。」
この父親に1000万以上の収入があればいいですよ。なければ、赤字になるのは当然じゃないですか。足りないから、借金をしよう、というのでは、完全な破産者のメンタリティーですよね。
解決は、国債を発行することでも、税金を増やすことでもなく、自分の実力にみあったものしか欲しがらないということでしょう。
小野容疑者を冤罪のヒーローにするのにルーテル教団の元牧師がかかわっていたのですか。それは、そのルーテルの元先生がお人好しだっただけの話です。その他にも、クリスチャンではないお人好しもたくさんいたわけです。そのお人好しの一人一人の持っている思想信条自体がおかしいということになるのでしょうか。このような判断によってクリスチャンとして迷惑を感じる人々がいるように、そのお人好したちが所属している団体のメンバーも迷惑を感じているのではないでしょうか。
日本のクリスチャンおよび、社会党の人たちに共通しているのは、政府のやる
ことにはなんでも反対!よって、政府を糾弾するような運動には無条件で参加し
てしまう、「かわいそうな○○君を救え」といった運動にはたちまち多くのクリスチャンが賛同するというのは、本当であり、そのような傾向があります。
でも、繰り返すようですが、一つを見て、全部がそうだというのは、きわめて初歩的な詭弁でしょう。
「となりの猫は、よくうちの魚を盗む。だから猫はずるい。」
こういった短絡的な発想からユダヤ人嫌いが生まれているのではないでしょうか。
「おれの知り合いのユダヤ人はせこい。だからユダヤ人という人種は・・・。」
現在の日本のクリスチャンの現状を見て言えるのは、「日本のクリスチャンの一部にはそのように何でも反対する人々がいる。」というだけなのです。代替案を提示せず、建設的な意見を提示せずに人の意見にケチをつけるだけのつまらない人間はどこにでも、どの組織にもいるものです。
クリスチャンが科学を科学者と議論しても勝てっこないなんて、学校で勉強したことを鵜呑みにしているなら別でしょうけど、普通にものを考えているなら別の言い方もありますよね。だいたい、学説というのは、説でしかないんです。つまり、意見なのです。だから、まじめな科学者ならば、けっして自分の学説を絶対不変のものだと断言しません。宗教的確信になっているなら別でしょうけど、一流の学者は、自分の限界、科学の限界をわきまえているものです。知れば知るほど、自分の無知と卑小さに気づくのが、真摯な学者の態度でしょう。科学に絶対的な確信を持つのは、受験勉強のやりすぎ。10年でもコロコロ変わるものに、絶対不変の真理であるかのような確信を持たせてあげるのは、予備校の先生の務めであって、研究者の仕事ではない。わたしも、大学に入って最初、大学の講師が「このように考える説もあるし、このように考える説もある。」と言うのに戸惑いました。その次に「これが正しい説だ。」と言ってくれるのかな、と思ったのですが、けっしてそのように安心させてくれることは言わない。宙ぶらりんの状態に放置されたような気がしたものです。でも、これが学問の真実な姿でしょう。つまり、説は説、意見は意見なのです。けっして学生に幻想を抱かせない。
そもそも聖書一冊で世の中のことすべてを理解できるようにいう、って、だれがそんなこと言うんですか。かけ算の九九までも聖書に書いてあるんですか。そんなこと信じているクリスチャンをどこで見たのですか。教えてください。一度会ってみたいですね。
こんな空想上のクリスチャンを前提にして、「だから、クリスチャンは精神の問題に専念すると宣言するのが賢明だ」なんて、ちょっと乱暴にもほどがありませんか。この程度のクリスチャンだったら、精神の問題に専念しても、ろくなこと考えませんでしょう。
アインシュタインやホーキングは、不倫のことだけではなく、彼らは実際に自分の信じている前提に立って生活できなかった、そういった意味で、取り上げることはできるでしょう。もしホーキングの無神論が生活において忠実に実践されたら、彼はけっして生きていくことはできないでしょう。もし本気で、無神論をやるなら、結婚式を教会でなどやらないで欲しいですね。
チェンバレンの妥協策を、クリスチャンのすべての思想家が最初から歓迎したとでも思っているなら、もっと勉強して欲しいとしか言えません。聖書において、反戦が至上命題であると思っているのでしょうか。モーセに率いられたイスラエル人がどのようにしてカナンに入ったかご存じですか。もし自己防衛の軍備を否定したり、非道な侵略を黙認することが聖書に書かれているならば、別です。そのような箇所を挙げていただけますか。どこに、「軍隊は絶対悪だ。」などと書いてありますか。絶対平和主義は、悪をのさばらせることになるので、とても聖書的と言うことは不可能です。もし、かつての社会党のように、非武装を主張する人がいるならば、その人に「じゃあ、あなたは自分の家に鍵をかけて寝ないのですか。」と問いたい。「わたしは、日本を非武装にして、侵略されるままにする。日本を神に聖なるいけにえとして捧げる」などと言った有名なクリスチャンがいましたが、旧約聖書を読まないとこのようなことになるのです。
あの小野被告を監獄から解放するのに助力した牧師さんをぶんなぐってやりたいなら、ミュンヘン一揆を起こしたヒトラーを処刑しないで許した死刑廃止論者はどうなるのですか。数百万人もの犠牲者の家族は八つ裂きにしたいと思うでしょう。
クリスチャンであれ、ノンクリスチャンであれ、聖書に従わずに自分の知恵に頼って事を行う人々は、全員、失敗者であり、敗残者なのです。どんなに善意で行ったとしても、その行為は、人に多大な迷惑をかけ、自分も不幸にし、神を怒らせることになるのです。
キリスト教を攻撃するなら、聖書の具体的な箇所を挙げてそこを攻撃しましょう。一部のクリスチャンの失敗をあげつらって、あたかもキリスト教全体が誤っていると考えても、自分の批判力のなさをさらけ出すだけです。