質疑応答集


 


暴力的伝道−−前千年王国説



 「これから世の中はだんだん悪くなって、教会は弱くなる。そして、大患難が来て、反キリストが全世界を支配する。その前後にクリスチャンは天に携挙されて、空中で主と会う。その後、キリストが再臨し、反キリストを滅ぼし、全世界は千年間キリストの支配の元に置かれる。クリスチャンもその際にキリストと一緒に天からやってきて、全世界をキリストと共に支配する。」

   これは、どこかの幼稚園で演じられている紙芝居ではありません。ハリウッドで作られたSF映画でもありません。何とアメリカで4000万人もの人々が信じている「いわゆる聖書預言による未来図」なのです。

 この説の問題点は、千年期にキリストが全世界を支配する方法は、「暴力的」である、ということです。艱難時代の間、クリスチャンでない人々は、反キリストの圧制の中でもがき苦しんでいます。その苦しみの直中でキリストが再臨するのです。雲に乗ってやってきたキリストが現れると、彼らは、あたかも水戸黄門にひれ伏す平民のように、キリストを王として認め、ひれ伏します。そして、その後に、彼らはキリストに従って、千年間キリストの王国の国民となります。

 しかし、これは神が御自身を啓示される方法と矛盾します。神は「自らを隠す神」であると言われます。つまり、傲慢な魂には分からず、心砕かれた人々にしか分からない方法で、ご自分を啓示されるのです。キリストが誕生された時に、けっして、王様の家に生まれたわけではありませんでした。貧しい大工の息子として、宿屋がないために馬小屋で生まれました。死ぬ時に、キリストはけっして栄光につつまれて死んだのではなく、十字架上で罪人として処刑されました。

 ここに、信仰のハードルがあります。だれでもが認められる形で御自身を表すのではなく、心砕かれ、信仰による識別力の与えられた者しか認識できないような形でしか神は御自身を啓示されません。信仰によらずには、私たちは神を神と認めることはできないのです。救いの真理は、華々しいものの中にはなく、つつましいものの中にあります。神はこのようにして選びの民を集めるのです。傲慢な者はけっして信仰に入ることはできません。

 「たしかにあなたがたに言います。幼子のように神の国を受け入れなければ、だれもその中に入ることはできません。」(ルカ18・17)

 サタンは、華々しい証拠を提示するように誘惑します。イエスに向かって、「石をパンに変えなさい。」「神殿の頂から飛び降りなさい。」と言いました。「そうすれば、人々は、この人は神の子だ。」と認めるでしょう、と。

 伝道は、このような華々しいものによるのではなく、「宣教の愚かさ」を通じて行われます。もし、神がやろうと思えば、突然、天から雲にのってやってきて、ホワイトハウスや国会議事堂か何かの上に降り立ち、「わたしは神だ。皆の者、ひれ伏せ。」と言うこともできるでしょう。しかし、そのような方法は、けっしてとられないのです。神は謙遜な者に御国を与えようとしておられます。「心の貧しい者は幸いである。御国はその人のものだからである。」(マタイ5・3)

 「神がいるなら見せて見ろ。証拠を示せ。」というような傲慢な者に対して、神は、逆に御自身を隠されるのです。

 ですから、千年期をはじめるにあたって、天から雲に乗ってキリストがやってきて、全世界を統治し、その威光を見て全世界の国民が、キリストを信じるようになるというのは、神のご性質に反しています。(*)

 また、もし神がそのような方法をとられるならば、現在クリスチャンは、苦労して教会に人々を誘うことをする必要がないのです。伝道しなくても、キリストの再臨の時に、全世界に大患難時代を生き残ったほとんどの人はキリストに服従するようになるからです。(それとも、現在教会に人を誘うのは、ひとりでも多く携挙してもらって、艱難時代を通過する人の数を減らすためだからなのでしょうか)。

 再臨の前において、神は、あくまでも宣教の愚かさを通して御国を建設されます。キリストは「全世界の国民を弟子としなさい。バプテスマを授け、わたしが命じたすべてのことを守るように彼らに教えなさい。」と指示されました。つまり、神が真理を啓示される方法は、栄光のキリストの来臨という「暴力」によるのではなく、人間の口を通して働く聖霊の「教育」によるのです。ひとりがひとりに(場合によって複数の人に)福音を伝える・・・。この方法以外に、神の御言葉が広まることはありません。この地味な方法によらずしては、神の御国は拡大されません。神は、特殊な場合を除いて、強制によるのではなく、自発的回心を求められます。

 「というのは、・・・世が、知恵によって神を知るのではなく、宣教の愚かさを通じて、信じる者が救われることが神の御心にかなったことだったからです。」(1コリント1・27)

(*)キリストが神としての栄光を啓示されたのは、信仰を告白した弟子たちだけでした(山上の変貌)。復活のキリストは、御自身を弟子たちだけに示されました。  キリストの奇跡は、来るべき「メシアのしるし」としてのみ行われました。これは、メシアである証拠として預言されていたものに限られていました。つまり、謙遜な人々が、本当のメシアを見分けることができるように、あらかじめ預言者を通じて示されていた識別のチェックポイントでしかありませんでした。けっして人々を驚嘆させるために行われたものではなかった。不信仰なパリサイ人がしるしを求めた時に、「悪い姦淫の世代には、しるしは与えられない」(マタイ16・4)と拒否されました。





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