救いの予定について、パウロはこう言いました。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」とあるとおりです。(ローマ9・11ー12)
神様は、私を永遠の昔から予定しておられたと信じます。これは私が神様を愛したからでもなく、私の行いが良かったからクリスチャンになったのでもなく、あくまでも、神様が永遠の昔に、私を救いに予定してくださったからだ、と信じます。そして、私がどのように神様の仕事を行うかも、すべて神様が恵みとして永遠の昔に、予定してくださったから、今このように神様の仕事をすることができるのだと信じます。パウロは、自分が使徒として多くの働きをすることができるのも、神の恵みであると告白しています(1コリント15・10)。
神様は、ご自分の栄光のために、ある者を使徒に、ある者を殉教者に、ある者を殉教者を迫害する者に、ある者を宣教師に、ある者を共産主義者に、それぞれ予定されたのです。それは、神が罪の創造者だというのではなく、神は、その罪を犯している人々をその欲望のおもむくままに放置することによって、クリスチャンの反対者となるようにお定めになったのです。
もし、ある人が殉教した場合、その人は、「私の信仰が素晴らしいから殉教できたのだ。」と言うかもしれません。そのように言わせないために、神は、「あらゆる良き業は、神の賜物であり、神によってあらかじめ定められていたのだ。」と言われるのです。殉教も、神の恵みがなければできません。多くの殉教者は、殉教を恵みとして受け取ったのです。
神は、同じ土くれから、尊い器も、卑しい器も作る権利をもっておられます。クリスチャンは幸いにも尊い器として創造されました。しかし、ユダのように卑しい器として創造された人もいます。卑しい器として創造された人々は、神に反抗し、神の敵となり、クリスチャンを迫害しますが、それは、永遠の裁きを受けるときに、神の正しさ、つまり、神が悪を正しく裁かれるお方であることを示すために創造されたのです。
「主は、すべてのものを、ご自分の目的のために創造され、悪者さえも、わざわいの日のために造られた。」(箴言16・4)