i・MODE→  

神の聖定について



 聖書において、神はあらゆることをあらかじめ、全くの自由意思によって決定された、と語られています。


「だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」(イザヤ40・13−14)


「いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。」(エレミヤ23・18)


「主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。」(詩篇92・4)


「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主の御計画にあずかったのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11・33−36)


 「すべてのことは、神から発」するのです。


 神は、だれとも相談されることなく、だれの影響を受けることもなく、ご自分の絶対の意思によって万事を決定されました。


 神が決定したのではないものは一つもありません。


 例えば、神は、素粒子を創造された方であり、その一つ一つの運動について、すべてをあらかじめ決定されたのです。


 もし、一つの素粒子でも、神の決定によらずに存在するものがあるとすれば、そこにおいて、神の絶対性が崩れます。


 神は、意思においても絶対なので、神の意志によらずに起こることは一切存在しません。


 もし、神の決定によらずにあることが起こると、神は、それによって影響を受けることになります。影響を受けるということは、そのものに依存することになるわけで、神は絶対的独立を失うことになります。これは、もはや絶対者ではありません。


 例えば、ユダヤ人は、キリストを拒み、不従順に陥りました。彼らがキリストを殺害した時に、神は、それに驚いたのでしょうか。「大変なことになった。自分のひとり子が殺されてしまった。」と嘆いたのでしょうか。「自分の選んだ民が私を憎むようになってしまった。どうしよう。」と狼狽したのでしょうか。


 そうではありません。神は、ユダヤ人を「不従順のうちに閉じこめた」(ローマ11・32)のです。ユダヤ人が、キリストの救いを受け入れないように、神があらかじめ定めたのです。


 エサウが、自分の長子の権利を売り渡したため、相続がヤコブに移りました。この時に、神は、「私の与えた特権を踏みにじるとは、エサウは、何という俗物なのか。」と驚き、怒られたのでしょうか。


 そうではありません。あらかじめ彼らが生まれる前から、神はエサウを拒み、ヤコブを選ぶことを決定されていたのです。


「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、『兄は弟に仕える。』と彼女に告げられたのです。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。』と書いてあるとおりです。」(ローマ9・11−13)


 エジプトの王(パロ=ファラオ)は、奴隷であったイスラエルを解放することを拒み、彼らをエジプトから脱出させませんでした。神は、それによって苦しんだのでしょうか。「パロよ。おまえによって私の計画はつぶれそうだ。」と悩まれたのでしょうか。


 そうではありません。神は、あらかじめ、パロが心をかたくなにすることを決定されたのです。


「聖書は、パロに、『わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。』と言っています。こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」(ローマ9・17−18)


 つまり、神は、パロの心をかたくなにすることによって、神の力を示そうとなさったのです。パロの心を頑固にして、イスラエルを解放させないようにし、それによって、数々の裁きをエジプトに下しました。この裁きを通して、神がイスラエルと共におり、神が全能の力によってイスラエルを解放される方であることを全世界に知らしめようとされたのです。パロは、この神の栄光のために用いられたのです。


 悪者が、罪を犯す時に、神は驚かれるのでしょうか。神は、その悪事によって狼狽するのでしょうか。ユダがキリストを裏切った時に、神は、ユダによって苦しめられるのでしょうか。もちろん、時間的な意味において、神は、ユダの罪に苦しまれたのです。しかし、永遠の意味において、そうではありません。神は、ユダを用いて神の救いの計画を実現しようと決定されたのです。ユダは、キリストによる救いを実現するために、永遠において定められた器だったのです。ユダがキリストを裏切ることは、旧約聖書において、預言されていました。


「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。・・・実は、詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ。そこには、住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』」(使徒1・16−20)


 神は、悪者を、ご自分の目的のために創造されました。


「主は、すべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえも、わざわいの日のために創造された。」(箴言16・4)


 神は、絶対者であるため、あらゆるものをもっぱらご自分のために創造されました。絶対者であるということは、完全な自己中心であることを意味します。(*)派生者である人間が自己中心であることは、許されません。人間は、神の意志に完全に服従しなければならず、神を宇宙の中心に置かなければならないのです。人間が自分を中心に宇宙を回すようになるときに、秩序は崩れます。


 人々が天動説を信じていた時に、惑星の動きはきわめて不可解でした。太陽が中心であると考えるようになって、惑星が規則的に運動していることが明らかになりました。自分の視点を自分に置くと、世界は混乱します。しかし、神に視点を移すと、あらゆることが規則正しく見えるようになるのです。


 聖書が定義している根本的な悪とは、宇宙を自分中心に回すことです。自分の利益のために他人を利用する。相手の存在が自分にとって邪魔ならば、その人を殺してしまう。殺人も、偽証も、姦淫も、侵略戦争も、すべての悪は、自分を中心に世界を動かそうとする野心から生まれてくるのです。


 私たちが存在せしめられた世界は、神の創造によるので、神を中心に世界を解釈し、世界を回す必要があるのです。それ以外は、ただひたすら、混乱と破壊と苦しみを生み出すだけです。


 神は、万物をご自分の目的のために造りました。善人も悪人もただ、ご自分のために創造されたのです。


 神の民は、神に従い良き業を行うことによって神の栄光を現します。悪人は、神に従わずに悪行を重ねることによって神の栄光を現します。それは、神が彼の罪を裁く時に、神の義が明らかにされるためなのです。


 神は、永遠の昔に、人の救いを予定されました。ある者を救い、ある者を滅ぼすことを永遠の昔に決定されたのです。


「神は、私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1・4−5)


「神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになった御計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」(同1・8−11)


 神によって救いに予定されていた者は、自分の意志によるとよらずとにかかわらず、救われます。これは、神の決定によることであって、人間が自分で救いに入ることを希望したからではありません。もちろん、時間的な意味において、人間は救いに入ることを熱望するわけですが、それさえも、神の賜物なのです。つまり、神が、人間の心に救われることを望む望みも与えて下さったから救われるのです。


 聖書において、生まれながらの人間は、霊的な死人であると述べられています。


「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・・」(エペソ2・1)


「罪過の中に死んでいたこの私たちたちを・・・」(エペソ2・5)


 生まれながらの人間は、みな死人なのです。死人は、救われることを望みません。 海で溺死した人は、けっして浮輪が投げられてもそれにしがみつこうとしません。


 死人である人間が、どのようにしたら救いを求めるようになるのでしょうか。それは、神がその人の心を再生させ、自分が溺れていることに気づかせることです。


 ですから、予定されている人には、神の一方的な働きより、救われるための準備を神がしてくださるのです。


 予定されていない人は、そもそも救われることを望みません。彼にとって、十字架の言葉はおろかです。


「十字架のことばは、滅びに至る人々にはおろかである・・・」(1コリント1・18)


 彼は、自分が救いを必要としていることが、理解できません。彼は、自覚しないままにガンにおかされて、死んでいく人に似ています。ですから、医者の忠告も、彼にとっては無意味です。


 神は、宇宙を創造する前から、すべてのことを予定しておられました。歴史を通じて、善も悪も、あらゆることを用いて神の栄光を現すことを予定されたのです。悪の勢力は、神の正しさ、力、救いを現すための道具として、創造されました。(**)



(*)自己中心は、絶対的な悪ではありません。絶対者が自己中心であるということは、絶対者の性質にかなったことなのです。もし、絶対者の行動の究極の目的が、絶対者自身以外のものにあるとすれば、「絶対者の自存性」に矛盾します。絶対者は、完全に独立しており、いかなる者にも依存せず、完全に自己完結しておられるのです。


 キリストがクリスチャンのために十字架上で死なれたのも、究極的には、ご自分のためでした。


「キリストが、すべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(2コリント5・15)


 キリストの贖いは、被造物が、本来の秩序に復帰して、神を中心とした世界を構築するためでした。この状態が、被造物にとっても最高の益となるのです。


 因みに、善悪は、神の上に存在するものではありません。神が悪であると言ったことが悪であり、神が善であるといったことが善なのです。もし、善という非人格が、神の上に存在するということになると、偶然が究極となってしまいます。


(**)それでは、悪を創造したのも神なのか、という問題になりますが、悪を創造したのが神であれば、神は悪を裁くことができなくなります。神は、絶対者であり、ご自分の性質や意思と矛盾することは何一つできません。


 神は、悪を犯す者を放置されるのです。人間は、アダムにおいて堕落しました。アダムの子孫は、すべて本性において悪を犯します。子供は、生まれながらに自己中心です。それゆえ、人は、生まれながらに神に敵対するのです。抑制の恵みを取り去られて放置されると、人間は神の御心に反したことを自然と行うようになります。


 例えば、ユダがイエスを裏切った時、神が、彼を誘惑してイエスを裏切るように仕向けたのではありません。「神はだれをも誘惑されることはない。」(ヤコブ1・13)


 あのとき、ペテロもヨハネもイエスを裏切る可能性がありました。もし、神が、罪を抑制する恵みを彼らから奪えば、彼らがイエスを裏切る役割を果たしたことでしょう。しかし、ペテロとヨハネは、神の恵みの器として創造されたので、神が彼らを守られたのです。


「シモン、シモン、見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22・31)


 ヒトラーがユダヤ人を虐殺したのも、神が彼から抑制の恵みを取り去ったからに他なりません。ヒトラーだけではなく、人間は、みな、とことん堕落して途方もない悪を犯す可能性があるのです。私たちが、その罪の本性を発現させずにすんでいるのは、神の抑制の恵みがあるからです。


 神は、歴史において、ある目的のために、例えば、人間の罪や傲慢を裁くために、ある人間の邪悪な意思が実現することを一時的に許されることがあります。


 例えば、イスラエルが神を忘れ、自分勝手な生活をした時に、ペリシテ人を起こして、彼らの侵略欲を許され、イスラエルがそれによって苦しむことをよしとされました(士師記参照)。


   神は、人間の体に痛みを感ずる機能を与えられましたが、それは、自分の身を守る上ではどうしても必要なものです。もし痛みがなければ、人間は、自分の体の異常に気づかずに、すぐに死んでしまいます。このように、人間は自分の傲慢に気づかず、神の法から離れて生活しても、大丈夫だ、と慢心することのないために、時折、とんでもない人間に権力を持たせたり、外国の侵略を許したり、思いも寄らぬ災難に遭うことがあります。へりくだって、神に立ち返るために、神は、滅びの器を用いられることがあります。




ホームページへ