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プータロー大量生産計画



(Q)ここでは、イエスは天の王座について、天地の主権者になったと説明すればそれで一件落着するとお考えのように受け取れます。イエスの再臨とはその程度のものなのですか。絵空事で満足できるのでしょうか。



(A)
「イエスの再臨とはその程度のものなのですか。絵空事で満足できるのでしょうか。」:

 24章の来臨は、再臨ではないと繰り返して述べたつもりですが。

 キリストは主権者になることが、必ずしも、全世界が即時的に変革されることを意味しているわけではません。そのように主張している箇所は聖書のどこにも存在しません。

 キリストが主権者になることは、世界変革の土台となるとは述べられています。 「わたしは、天地においていっさいの権威が与えられています。だから、行ってすべての国民を弟子としなさい。」(マタイ28・19)

 神の国の到来が、漸進的ではなく、突然完全な形でしかやって来ないと考えるのは、一つの空想に基づいた絵空事であって、聖書から裏付けることは不可能です。

 神の国の到来は、漸進的であるというのが聖書が一貫して主張しているところです。

 神の国は、歴史の中で発展して、そして、最後に完成します(マタイ12・28、ルカ17・20、2テサ1・5、1コリ15・24)。最初は、10数人であった弟子たちから、ローマ帝国のキリスト教国化、そして、ヨーロッパの福音化、そして、全世界伝道と、福音はこれまで発展してきました。これは、キリストが王であり、主権者だから可能になったのです。

   もし再臨において、全世界の即時的変化を期待するのであれば、再臨をひたすら待って、全部キリストにやってもらうのがよいでしょう。宣教師がなぜ、危険を冒してジャングルの中に行く必要がありますか。

 こういった、空想的な救済を、デウス・エクス・マキーナ救済と言います。わかりやすく言えば、ウルトラマン信仰です。

 「ウルトラマンが最後に来て全部やってくれる。」

 となれば、当然の結論として、私たちは、待つだけでよいのだ、ということになるのです。

 このような発想から生まれるのは、社会変革の努力ではなくて、諦観的怠惰でしかありません。自分の宣教も、仕事も、財産も、すべて、再臨があるのだから、無用だ、ということになるのです。

 現在流行している通俗終末論によれば、キリストの再臨の前に反キリストが世界を支配して、ものを売ることも買うこともできないようにする、そして、教会は背教によって弱くなって、ソ連が(これは外れましたね)、そして、それと連合するイラン・エジプト・アラビア・エチオピアがイスラエルに攻め込み、ハルマゲドンにおいて最終戦争がある。その時、天からキリストが聖徒たちと共にやってくる・・・。

 こういった悲観的未来観は、オウムに任せて、キリスト教は本来の信仰的未来観を取り戻すべきなのです。キリスト教は、信仰に基づいて未来を切り開くことを奨励しています。あきらめて待て、というような、そんな発想はキリスト教にはありません。

 「現実を見なさい。こんなに悪が蔓延っている。それなのにこれからキリスト教は盛んになって、世界中は弟子となる?笑わせないでよ。」

 どうぞ笑って下さい。そういった信仰のない人々は、昔もいました。でも、カナンに入ることはできませんでした。

 こういった悲観的終末論を端的に表す言葉があります。

 「沈み行く船の上で真鍮を磨きますか。」

 つまり、これから教会や世界は悪の支配下に入っていくのだから、そんなときに文化の建設などやっておれますか。という意味です。

 当然、そのクリスチャンの職業観、結婚観は、この終末論によって汚染されます。会社になどいて働かずに、伝道師になって、ひとりでも多くの人を救いに導き、彼らを大患難から救うしかない。と言って、「伝道師」になります。この人は、日本において、第一級のプータローになります。プータローだけならかわいいが、プータローを伝染させることになります。この人の影響を受けた人々は、大学の勉強を中止し、不動産を売り、会社を退職し、結婚を控え、「献身」して、終末を告げる「預言者」となります。いわば、キリスト版出家集団を作るわけです。この預言者によって生み出された集団は「塩気を失った塩」のたとえよろしく、この世に対して、毒にこそなれ、何の薬にもならない無能集団になります。

 彼らの考えに従って、どうして長期的なビジョンが生まれるでしょうか。どうして、自分の職業的技能を高めて、社会に貢献しようと考えるでしょうか。どうして、政治を改革しようと考えるでしょうか。どうして、医療改革について真剣に考えるでしょうか。どうして、社会福祉について考えるでしょうか。どうして、科学の発展について考えるでしょうか。

 「再臨が来るんですよ。間近に。そんなことやって何になるんですか。」

 ある有名な牧師は、再臨が近いということで、「お墓」も建てるな、不動産も買うなと説教しました。

 さあ、キリスト教は、このプータロー大量生産終末論を捨てて、建設的改革的終末論を信じようではありませんか。



  (Q)イエスの主権が全世界に及ぶと信じているのであれば、世界の終末時に、キリストが多くの聖徒たちと共に、雲に乗ってやってきて、世界の王となるというストーリーの方が普通の読み方ではないでしょうか。

(A)普通の読み方ではありません。普通は、聖書から論証のできる読み方を「普通の読み方」と言うのです。自分のパラダイムがあって、それを元に、「聖書はこう書かれていて欲しい」と念じながら読む読み方は、「読み込み」というのです。

 マタイ28・19−20から、どうして、そのようなキリストの主権が再臨前に実現しないという教えが生まれるでしょうか。

 ただの一節からも論証できない教えに自分の頭脳を占領させることは人生の無駄、エネルギーの無駄です。

 だいたい、このような聖書解釈(?)をする方々は、自分の主観が聖書の上にあってもいいのだという前提で、行動しますので、話しても無駄なことが多い。したがって、これ以上、議論しません。あしからず。






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