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牧師代理について

 

<ご質問>@牧師代理について

現在私たちの教会では牧師はいません(そもそも牧師制度がない)。教会の指導者を「代表」ということで運営してきました。このほど信徒総会が持たれたときに、その代表の方から、今後は「牧師代理」ということにしてくれないだろうかという提案がありました。理由は、「代表」という肩書きだと対外的に、いろいろな面で不都合(代表と呼ぶわけについていちいち説明をしなければならない、本物のキリスト教か否か疑われる等)だからということです。名前だけ「牧師代理」としてもらえばそれでいいというのですが、これは聖書的にみて問題はないのでしょうか?エペソ4:11にある牧師とはキリストご自身がお立てになったと書かれていますが、代理であればキリストご自身がお立てになったと考えなくてよいのでしょうか?つまり、単なる呼称だけの問題になるのでしょうか?ちなみに現代表は自分は牧師ではない(牧師の召命はない)と言ってます。また、この点については話し合いが持たれましたが、一体聖書は何と言っているのか解らないため、結論が出せません。キリストがお立てになる事項ならば、人間である私たちが勝手に決めるべきことではないと私は考えるのですが、いかがでしょうか?

 

<お答え>

該当するエペソの個所だけが牧師制度を承認していると考えれば、牧師はキリストの直接の任命がなければなれないのであるから、現在キリストが直接任命されるわけではないので牧師制度はありえない、と言えなくもないでしょうが、実際は、牧師制度は、他のおびただしい個所において正当とされています。

実際、テトスやテモテは牧師でした。

パウロは監督になりたい人はよい願いを持っていると述べています。

 

 また、「キリスト御自身がお立てになった」という個所が、「2000年前の受肉された(すなわち、復活して栄光体になる前の)キリストが直接任命された」ということだけを指していると考えることは無理があると存じます。受肉されたキリストであっても、復活体のキリストであっても(また聖霊であっても、父なる神であっても)任命されるのは、三位一体の神の名によって任命されるわけであり(神はお一人である)、「受肉されたキリスト」だから権威があって、「復活体のキリスト」じゃ権威がないということにはなりません。

 

 それゆえ、現在でも牧師になるならば、(復活体の)キリストの直接の任命があったと考えられます。

ローマ書13章には、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものである。」とあります。つまり、現在において日本国の首相になっている小渕氏は、神によって権威を与えられたのだと述べられているわけですから、現在牧師となっている人々が神によって権威を与えられていないとは言えないでしょう。