日曜日は特別の日か?
<ご質問>
A.日曜日礼拝について
日曜日に礼拝を守ることの聖書的根拠は何でしょうか?
近年の社会生活は多様化しているため、日曜日に仕事がある人たちもたくさんいるし、聖書には日曜日に集まれとの記述もないから、必ずしも日曜日に礼拝するという事にこだわる必要はなくなったということも聞きますので。
<お答え>
パウロは、日にちについては、「ある特定の日が大切であるとする人もいれば、そうではないという人もいる。それぞれ確信を持て。」と述べています。
よく旧約聖書において安息日は土曜日であったのだから、今日でも土曜日でなければならないという人がいますが、そもそも、暦の制度が、旧約聖書の時代とは決定的に異なっているので、現在のような太陽暦の時代において曜日をうんぬんすることに難があると言えるでしょう。
旧約聖書において、日にちと曜日の対応は固定されていて、1月14日は必ず金曜日(過越祭)でなければならなかったのですが、現在私たちは、1月14日は金曜日でなければならないということはありません。
「主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。…この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。…あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、…かもいに、血をつける。その夜、その肉を食べる。…これは主への過越のいけにえである。」(出エジプト12・1−11)
このように暦のシステムが完全に異なっている社会の規則をそのまま現在の社会に適用することは、ナンセンスでしょう。
旧約の経綸と新約の経綸は、「民族的・地域的」と「超民族的・普遍的」の違いなのですから、「新しい時代には新しい皮袋」が必要ではないかと思います。
もちろん、「じゃあ、新約の時代にはモーセ律法の暦は、動物犠牲のように、『適用しなくてもよい物』の中に入るのか。」という質問が出るかもしれませんが、先のパウロの言葉から、新約時代には暦制度にこだわる必要はないと考えます。
イエス・キリストは、十字架にかかり、罪の犠牲となって、彼御自身が「救い」となられ、あらゆる時間を聖とされ、安息とされたのです。彼は御国を開始されたのであり、私たちはその御国の住人なのです(マタイ28・18;エペソ2・6)から、キリスト昇天後、クリスチャンは、すべての時間「安息」の中に入っているのです。
動物犠牲がそうであったのと同じように、暦制度も、<救済の面において>その意味はイエス・キリストの贖いによって変わりました。イエス・キリストが犠牲となったので、動物犠牲は不要です。それと同じように、暦も、イエス・キリストが時間を法的に聖化した以上、何曜日が「安息」であり、何曜日が「安息以外」であるかという区別は撤廃されました。
コロサイ1・20「神は、御子の十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」
世界全体は、キリストによって法的に神と和解しており、聖なるものと俗なるものとの区別はありません。一切が聖なのです。「ものそのもの」が俗であるということは、もはやありません。豚やうなぎの肉が俗で、牛が聖であるという区別は十字架の和解によってもはや存在せず、パレスチナが聖地であり、それ以外は俗地であるという区別もありません。ユダヤ暦の1月14日とそれを基礎として定められた金曜日から土曜日にかけた日が安息日であり、それ以外は安息日ではない、という区別もありません。時間はすべて聖とされたのです。
(注1)それじゃあ、どの行為も聖となるのか、殺人や姦淫も聖なのか、という批判があるかもしれませんが、ものそのものには聖と俗はないが、ものを使用する人間の行為が聖と俗になるということはできます。
ナイフそのものは聖でも俗でもないが、ナイフをどのように使用するか、それを殺人に使うか、それで料理を作るか、という人間の行為に善悪、聖俗はつきまといます。
時間そのものは聖ですが、人間が神を中心として時間を過ごさないとそれは俗になります。自分勝手な目的のために時間を使うときに、時間は冒涜となるのです。
(注2)そもそも、旧約聖書の聖俗規定の律法は、人間の行為に善悪がつきまとい、それを区別すべきことを教えるために設けられたものでした。つまり、現在の相対主義の社会のように、人間が善悪を決定する権利を持つのではなく、神が定められた基準にしたがって善と悪を分けなければならないこと、それによって人間が聖なる者となるべきことを教えるために、神は、実物教育によって、イスラエル人に聖と俗の区別を教えたのです。
牛とか豚とか、安息日とかは、時間も空間も食物もあらゆるものが神の所有であり、人間は、神の基準によって常に行動すべきことを目に見える形で表現したものに過ぎません。これは、民族的な時代において、神が用いられた方法でした。まだ、霊的・実体的な原理が身についていない時代の教育の方法でした。
しかし、キリストが十字架にかかり、万物を神と和解させたことが宣言された以上、こういった民族的・即物的な区別は消えて、超民族的・実体的な区別がはっきりと現われたのです。
かつて神殿とはエルサレムのホレブの山にありましたが、現在では、キリスト及びキリストにつながるクリスチャンの体が神殿であるとされています。あの山で、この山で礼拝するのではなく、礼拝はクリスチャンの体のあるところどこでもできる。礼拝の本質が守られれば地域と時間に限定されることはない。
牛とか豚の区別はなく、すべて感謝して食べるものは聖であると神はペテロに夢の中で言われた。すなわち、ものそのものではなく、心の有り方(感謝)こそ本質・実体であると。
人間は実体そのものを最初から説かれてもわからない鈍い存在なので、まず、神が実物をとおして、聖と俗とを教えられたが、現在では、そのような区別は不要である。もちろん、実体を理解するために、イスラエルの旧約の物語をとおして、異邦人も区別を理解する方法を経る必要があるのですが…(だから旧約聖書が必要なのです)。
(注3)キリストという実体が現われたので、安息日の<救済的側面>は撤廃され、動物犠牲と同じように救済的意味を失いましたが、しかし、万物の構造上の役割は失っていません。
人間や動物や被造物は、休息を必要としています。
神の創造が、6日の労働と1日の休息によって行われたように、人間の創造参与(労働)も、このパターンが維持されなければならない。このような6対1のパターンは人間と被造物にとって最も合理的なリズムなのです。
人間は、神によって、被造物を管理するように任命された管理者です。被造世界を管理し、それを探求し科学的な知識を身につけ、それを応用して世界の潜在力を発現させて、高度な文明を「神のために」作らねばならない。その過程において、神が示してくださった労働のお手本に従わなければならない。すなわち、6日働いて、1日休むというリズムを守らねばならない。
結論:
安息日が日曜日であるか土曜日であるかにこだわる必要は新約時代のクリスチャンにはありません。どの日も礼拝日なのです。しかし、みんなが集まる公同の礼拝日として日曜日という定まった日を設定することはできますし、そうするのがベターなことが多い。労働ということを考えても日曜日に休みを取れる人が多いのですから、日曜日が便利でしょう。しかし、日曜日が特別の日であると考えることには聖書的な根拠はないと考えます。