i・MODE→  

キリスト教文化の再建





 私は、大学生の時に、「神が世界を創造されたゆえに、神が一切のものごとの解釈者であるべきだ」という、ウエストミンスター神学校教授故ヴァン・ティル博士の意見に触れました。これこそ、現在の哲学的危機の時代を乗り越える鍵であると考え、それ以来、研究を続けています。

 近現代の世界を形作ってきた哲学的前提は、「我思うゆえに我あり」とのデカルトの自律的認識論であると言われています。つまり、人間の理性が万物の解釈の出発点・土台となると彼は考えました。それ以来、われわれも含めて、近現代人は、聖書の啓示の上に人間理性を置くことを当然のように考えています。つまり、「聖書はこう言っているかもしれないが、私はこう思う。」という、あのアダムが犯した「善悪の基準を自分勝手に決める罪」を犯しているのです。その結果は、人間の自滅でしかありません。人間理性は、有限であり、しかも、罪という汚れで曇らされています。ソ連という国は、神とは無関係に、物事の価値を決め、それにしたがって国を運営しようとした、世界で初めての近代思想の実験国家でした。私はその国に約十ヵ月住んだことがあり(一九八二−三年)、人間理性だけに頼って国家を運営することの恐ろしさを体験しました。人間は、そもそもアダムにおいて悪魔の手下になってしまったのであり(エペソ二・二)、けっして中立的な判断力を持っていません。このことは自分自身を見てもわかります。理性は、自分自身さえ正しく評価することができません。人の心から出てくることは極めて神に敵対的です(エレミア十七・九)。しかし、聖書は誤りなき神の言葉であり、すべての人の価値判断の土台として与えられたものです。したがって、もし、人間が自分の知恵に頼り、これからも政治・経済・芸術等を自律的に運営しようとすれば、そのすべてにおいて失敗するでしょう(箴言二八・二七、創世十一・十九、第二コリント十・四−六)。

 それゆえ、今こそクリスチャンは、神のみ言葉によってあらゆる問題を考える必要があるのではないでしょうか。しかし、実際は、クリスチャンも、聖書の上に人間の理性をおいて当然のように考えているのではないでしょうか。この世の学問をあたかも中立的であるかのように考えて、無批判に受け入れ、聖書に照らしてそれらを批判し、捉え直すという作業を怠っているのではないでしょうか。その結果は、学問をすればするほどリベラルになり、聖書批評学や進化論やフロイトの心理学や文化人類学などを研究するうちに、聖書とこの世の学問の二重構造を作り上げてしまうのです。つまり、信仰とは日曜日だけのものであり、残りの日は世俗の人と同じ思考をしてしまうのです。このような状態を続けていけば、キリスト教は単なるヒューマニズムの亜流に堕してしまうでしょう。パウロは、「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のみ前で要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ・・・」(第二コリント十・四−五)と語っています。つまり、聖書をとおして教えられた神の知恵があらゆる思想の上に来なければならないのです。そして、そのために私たちは戦いを挑んでそれらを征服しなければならないのです。

 ある人はこのように言うと、「何を夢のようなことを言っているのか。」と言います。しかし、私たちは、キリストの約束を持っています。キリストは昇天されるときに、このように言われました。「私には、天においても、地においても、一切の権威が与えられています。だから、あなたがたは行ってすべての国民を弟子としなさい。バプテスマを授け、私が命じたすべてのことを守るように彼等に教えなさい。見よ。私は世の終りまでいつもあなたがたとともにいます。」(マタイ二八・十八−二十)クリスチャンが世の人の弟子となるのではなく、世の人がクリスチャンから学び、知恵を得るようにしなければならないのです。私たちは、日本人を弟子として、日本という国をキリストの国とする使命を与えられています。そして、このことは神の力によって可能なのです。今すぐに、とか、あと何十年で、とか言う話しではありません。ヨーロッパがキリスト教化されるのに千年かかりました。それも、今の状態を見ると、逆戻りしたように見えます。歴史は神の栄光の舞台であり、クリスチャンは神の力によって演ずる役者です。あるときは、勝利し、あるときは、敗北しましたが、長い目で見ると、確実に神の福音は世界に広がり、その影響は世界中の国や文化に及んでいます。現在私たちが当然のように考えている政治的自由や経済的自由、物質的・精神的利益は、神の兵隊たちが血を流して獲得してきた遺産に負うところ大なのです。**

 アダムは、「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を支配せよ。」との命令を神から受けました。この命令はノアにも与えられ、人間の基本的使命です。つまり、人間は神のみこころにしたがって、この地球を管理するために創造されたのです。人間は、神がいかに素晴しく、いかに慈愛に富み、いかに平和を愛され、真理を好まれるかを、この物質の世界において目に見える形で表わす責任があります。だから人間は肉体を与えられたのであり、地球の一員として作られたのです。ですから、この世は悪魔の世だから変えようとしても無駄だ、というわけには行きません。それは、人間としての基本的な責任の回避なのです。私たちは、悪魔に立ち向かって彼等を屈服させ、この地上を地獄のようにしてしまおうとする彼等の野望を打ち砕き、神のみ心にしたがった義と平和の支配する地球を実現しなければならないのです。

 地球を管理するために、神は私たちに、法を与えてくれました。聖書の法は、広く言えば聖書全体であり、狭く言えば、モーセの十戒とその下にあるさまざまな細則です。この法は、実にさまざまな領域のことがらについて指示を与えています。経済について、政治について、国家について、法律について、家庭について、性道徳について・・・。人間がどのようにこの地球を治め、それを発展させ、神の栄光を表わす文明を作ったらよいかを教えてくれます。今まで、人類は、主に、異教思想に起源を持つ、自然法に従って法律を作り、国家を運営してきました。しかし、自然法では世界は治めきれないことが明らかになりました。自然はけっして人間の行動の基準とはなりません。なぜならば自然も堕落しているからです(創世三・十七)。動物は人間の世界で言うあらゆる種類の倒錯的な性交を行います。今の日本の法律では獣姦を禁じる法律はありません。しかし、このような行いは神の忌み嫌われることであり、それゆえ、神はその者に対して裁きを下されるのです。今、日本にはびこる性的退廃は、たとえ法律によって罰せられなくても、神からの刑罰が下ります。自然法ではだめなのです。最高審判者は神であり、それゆえ、神のお定めになった法に従うしかないのです。

 人間の理性にしたがって人間王国を作るという野望は今、失敗することが明らかになりました。ソ連の崩壊や共産主義諸国の解体、理性主義アメリカの失墜、日本の政治的経済的道徳的混乱、世界を襲おうとしている経済的混乱・・・、すべての根は三位一体の神を認識の出発点にせず、人間の悟りを究極の座に据えたところにあります。私たちが従わなければならないのは、自然法ではなく、神の法なのです。あらゆるものの基準を神の啓示に求める時に、私たちは、真に忠実な管理者になることができるのです。



* このように述べると、何か、聖書によって運営すれば何でも夢のようにうまく行くと誤解されるかもしれません。たしかに、聖書は書かれた神の御意思なので、あらゆるものの基準となるべきですが、もし心が神に敵対しているままでは不十分です。つまり、心がキリストへの信仰によって作り変えられ、新しい人間になる必要があります。したがって、多くのクリスチャンが必要であり、そのためには、伝道が必要なのです。

** たとえば、インドはキリスト教のミッションが入る前は、サティとよばれる風習がありました。それは、夫が死ぬと、貞淑な妻はその火葬の火の中に飛び込まなければならないのです。日本を含め世界の文化は、キリスト教の影響のなかった時代には、人柱などきわめて残酷な風習に満ちていました。








ホームページへ