キリスト教再建論を批判するには
R・J・ラッシュドゥーニーは、アメリカの超一流とされている神学者です。彼の意見に対して、ノーと言えるには、それだけの実力を養わなければならないでしょう。
キリスト教再建論者は、過去40年の間に夥しい著作(百数十冊)をものにしてきました。しかし、これらの著作に対して、学問的にしっかりとした反論はいまだ出されていません。なぜか。それは、聖書的だからです。ウェストミンスター神学校がセオノミー(神の律法が今日でも有効であり、万物の統治に適用されるべきだとする考え)に対して批判書を出しましたが、明確な反論はしていません。
ですから、ウェストミンスターの内部でも、再建論者の著作を用いて授業を行っているのです。再建論者のリーダーであるグレッグ・バーンセン博士は、ヴァン・ティルから「これほどすぐれた生徒ははじめてだ。」と言われるほど、すぐれた神学者でした。彼はヴァン・ティルの後継者と目されていた人物でした。しかし、セオノミーの立場を持っていたために、学校に残ることはできなかったのです。
ラッシュドゥーニーはヴァン・ティルの前提主義に立っています。ヴァン・ティルまでは、ある意味で、教会の中において異論はないのです。私も、前の教会の主任牧師から、「ヴァン・ティルまではよい。しかし、それ以上論を進めることには同意できない。」と言われました。
しかし、もしそれ以上の論を主張してはならないというならば、いかなる論の発展も期待できません。ヴァン・ティルだけでは、どうしても現実の社会の問題を取り扱うには足りないのです。
ヴァン・ティルは、よく、「デモリション・マン」と言われています。つまり、発破屋なのです。ヒューマニズムやローマ・カトリシズム、自由主義神学、新神学、福音主義神学などの矛盾をついて、それを次々と批判していきます。そして、彼らの議論を完膚なきまでに破壊するのです。
しかし、彼のやったことは、それだけでした。破壊するだけで、建設はしなかったのです。
そこで、どのようにしたら、世界を正しく認識でき、正しく統治できるのかについて、ラッシュドゥーニーとバーンセンは、聖書律法を説いたのです。ドーイウェルトなど、ヴァン・ティルを発展させるかに見えた神学者もいましたが、代替物として律法を提供しなかったので、結局人間理性の自律に道を開いてしまったと言えます。
人間の理性から出るものでは、人間理性から出たものに対抗することはできません。超人間的な原理を提供しなければ、このヒューマニズムによって危機を迎えている社会を改革することはできません。
私たちは、神の啓示こそ、絶対だと信じます。聖書によらなければ、人間は正しく万物を統治することはできません。
このことに異論を唱えるクリスチャンがいるとすれば、首を傾げざるを得ません。
それでは、何を統治原理とするのか。何が代替案なのか。これを明確にしていただけなければ、私たちはそれを反論と見ることはできません。
キリスト教再建論を批判する人々が今までこれを提示したのを見たことがありません。彼らはただの不平屋でしかなかったのです。文句はだれでも言えます。
カルヴィニズムは、有神論を徹底して追求します。それは、人間の堕落が、人間の存在と活動の全域にわたっているからです。もし、人間に堕落の影響を受けていない部分があるならば、そのような自律的活動も許容できるでしょう。しかし、人間はあらゆる面で、罪の影響を免れないのです。
そうであれば、人間の内側から出てくる原理ではなく、超越的な原理、神の創造された原理によって思考しなければならないというのは、極めて理に適ったことではないでしょうか。
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