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相対主義の問題

 

> 検証不可能な事柄について確かな足場になるような基盤は誰も

>持っていません。規則さえもその規則は間違っていると言うしか

>ないです。対話のなかでその規則が正しく機能しているかどうか

>を検証するのは対話によるしかありませんね。我と汝の間に共通

>の規則等はありません。単純に一致しているか一致していないか

>検討するのみです。それにも関らず規則が厳然としてあると思え

>るのは社会的通用性に依存していると言わなければいけません。

> 言語ゲームです。

 

 そうだ。

 

 起源という問題になると、「絶対者の絶対予定」と「偶然の究極」という二つの選択しかないが、もし、「偶然の究極」を自分の立ち位置とするならば、人間理性が検証することのできない問題について、確かな足場になるような基盤は存在しない。

 

 偶然によって世界が誕生し、もっぱら偶然によって歴史が進展しているという立場を取る人間は、「倫理」という検証不可能な事柄について、確かなことを言うことはできない。

 

 「毒入りカレー」の犯人を糾弾することはできない。糾弾できたとしても、それは単に日本国民が取り決めた「約束事」に違反したということだけであって、道徳とか善悪とか正義とかを口にすることはできない。なぜならば、そもそも偶然に世界が誕生し、偶然にものごとが推移するならば、「道徳」とか「善悪」とか「正義」などを支える客観的な根拠はどこにも存在しないからだ。

 

 「道徳」「善悪」「正義」などが「厳然としてあると思えるのは社会的通用性に依存している」からであって、多くの者は、社会的通用性を普遍的価値と混同している。偶然が究極である世界において、秩序は一時的な逸脱であり、秩序を恒久化することにいかなる正当性をも与えることもできない。

 

 このような社会において、刑罰とは、約束事を破った者に対する共同体の制裁以外のなにものでもない。だから、国家による刑罰は拡大されたリンチにほかならない。

 

 「約束事」は、大多数の意見以外のいかなるものによっても決定されない。いや、されてはならない。「約束事」を決定するものが、それ以外にいないからである。

 

 大多数の意見は、善悪によって決定されるのではなく、大多数の功利に合致するか否かによって決定される。大多数の意見を超越した善悪など存在しないからである。

 

 このような功利主義的社会の存続の是非は、もっぱら、その他の社会との力関係によって決定される。日本の社会が生き残ることの是非は、より強力な社会または国際社会全体の功利によって決定される。もし、日本の社会が隣国などの恣意によって容易につぶされるものであるならば、その存続を期待することはできない。国際社会において、「民族自決」や「内政不干渉」などはけっして善悪の基準ではない。一人の人間の生存が、共同体の功利によって決定されているのと同じように、一つの民族や国家、社会も、他者の功利によって決定される。1930−40年代のドイツにおいて、ユダヤ人は、ドイツ人によって存在を否定された。ユダヤ民族絶滅を、「正義」をふりかざして非難することはできない。なぜならば、すべては他者との「約束事」によって決定されるからである。