よく、そんな神学のことを書いても無駄だとか、神学論争しても益にならない、一般の人々に分かりやすいことを書けばとか、言われますが、そもそも、聖霊によらなければ分からないことを、聖霊を受けていない人々に言っても無駄なことはよく分かっています。
じゃあ、だれを対象として文章を発表しているかと言うと、レムナントです。つまり、残りの民です。経済学博士ゲイリー・ノースは、聖書の経済学的注解書を出版しました。その中で、「この本は経済学者にとっては、あまりにも素人くさい。経済学の一般の人々からすると少し専門的だ。では、だれに焦点を合わせているのか、それは、残りの民である。」と述べています。
イエスは、大衆を信頼しなかった。「イエスはご自分を彼らにおまかせにならなかった。」とヨハネ福音書で述べられています。イエスをしゅろの枝を降りながら歓呼して迎えた大衆は、その直後に「十字架につけろ。」と叫んだ。
イエスが相手にしていたのは、ごく少数の弟子たちです。彼らには、奥義を話されたが、大衆にはたとえでしか語られなかった。
神は、数など問題にされない。キリスト教が復興するためには、大衆の力は不要。ごく少数の残りの民で十分。大衆に合わせると、どうしてもレベルが下がり、世俗化してしまう。大衆は、イエスが奇跡を行ったときに、彼を王様にまつり上げようとした。いつの時代も大衆の願いは、「腹の満たし」でしかない。
どんなに堕落して、希望のないように見える時代であっても、神は、「バアルにひざをかがめない7000人」を残しておられる。その人々を探すのです。リバイバルは、この7000人から始まる。
神の役に立つ人しか理解できない言葉があります。「十字架の言葉は、滅びる人々にとっては愚かでも、救いに至る私たちにとっては神の力である。」(1コリント1・18)
役に立たない人が1億人集まるよりも、神の残りの民が3人集まる方が、破壊力がある。
政治に期待するのは愚かです。企業に頼っても世の中は変わらない。変わるのは、神の力による。その神の力は、御心に合致した人を通じて現れる。
「神の御目は、あまねく全地を見渡し、その心が神に忠実な者に御力を現してくださる。」(第2歴代16・9)
「のろわれよ。人間に信頼する者、肉を己の力とし、心が主から離れる者ども。」(エレミヤ17・5)