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回復と償い



 アダムが罪を犯してから、宇宙は、異常な状態にあります。完全な秩序を保っていた宇宙に、ヒビが入ったのです。

 神は、エバに、「あなたは何ということをしたのか。」と言われました。

 この時に、明らかに、宇宙は異常事態に突入したのです。

 よく、人が発作に襲われたり、事故にあって重傷を負ったときに、その人自身も、回りの人々も、緊張します。異常なことが起こると、人間の体は、緊張し、脈拍は上がり、呼吸が荒くなります。

 この宇宙は今、そのような状態にあるのです。完全な秩序の中に、不従順が入ったのです。

 神は、最終的にこの異常な状態を修復され、元の完全な秩序の世界に回復されます。

 神の法は、すべてこの異常な状態を回復することを目的としています。

 神の法の特徴は、「回復」と「償い」です。

 すべての罪は、完全な秩序に対する「傷」であり、破れ口なのです。人間の体には、この破れ口をふさぐための機能が自然に備わっています。ホメオスタシスという機能があって、恒常性を維持するために、様々な機能が人間の体には組み込まれているのです。

 神の法は、罪によって損なわれた秩序を「回復」し、罪によって被害を被った神や人に対して「償い」を要求します。この償いをすることによって、人間は、宇宙の完全性を回復することができるのです。

 聖書に基づかない世俗的法律は、罪を放置して、その償いをしないので、「傷」が処置されないままに放置されることになります。傷を放置された人が死んでしまうように、「回復」と「償い」をされない社会も、死んでしまいます。

 聖書では、「故意の殺人を犯した人は、けっして生かしておいてはならない。」と述べています。

 殺人は、いのち以外のいかなる代償によっても償うことができません。殺人者は、処刑されなければならないのです。もし殺人者が処刑されなければ、社会に、消すことのできない傷が残ります。そして、その傷からは、絶えず血が流れ続けることになります。殺人者を処刑する以外に、その傷をふさぐことは不可能です。

 どうしても見つからない場合は、イスラエルの長老は、子牛の首を折る儀式を行って、殺人者の血の責任が自分たちに及ばないことを証明しなければなりませんでした。

 「その町の長老たちは、子牛を連れて川の流れる谷に下らなければならない。その谷は、鍬を入れられたことがなく、種が蒔かれたことがあってはならない。その子牛の首をその谷で折らなければならない。」(申命記21・4)

 このように、罪は、必ず償いを必要とするのです。すべての行為には責任が伴います。それが、契約的存在である人間の宿命なのです。

 学校において、非行者を処罰しないことが普通になると、学校は荒れます。学校において次のことが教えられなければなりません。

 この世界には、神が存在し、人間は神と契約を結んでおり、その契約を破ると、その契約の規定に基づいて処罰される、と。

 このような教育が行われず、行為に責任が伴わないというような誤った世界観を教えることは、その社会が自殺しようとしていることを意味します。

 どのような社会においても、行為には責任が伴うことがはっきり教えられなければなりません。

 今日の学校は、カント二元論の影響を受けており、現象の世界についてしか、教育することは不可能であると考えていますので、子どもたちに善悪や道徳を教えることができません。

 もちろん、神を前提としない教育に、そのようなことを期待できるわけがないのですが。

 いったい、道徳を教育するためには、その道徳を定めるための存在論的根拠が必要です。つまり、「なぜ殺人をしてはならないか。」の答えは、「なぜならば、神が世界を創造されたから」以外ではありません。

   宇宙を創造した神を前提としない教育は、社会の自殺です。社会は、勝手に考え出した法を社会に適用します。テレビカメラの前で、殺人が行われても、その殺人者が処刑されることはまれです。

 社会は、病んでいます。なぜ病んでいるのか。それは、正しい治療が行われていないからです。正しい「償い」が行われていない。そのために、社会は、死につつあるのです。聖書律法に基づかない法を適用する社会は、必ず自滅するのです。




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