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イエスと神は別個の存在か?



(Q)さらに、「なぜ、わたしを”善い”と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言って、イエスと神とは別個の存在であることを示されました。

(A)マタイ19章16−29節、マルコ10章17−22節及びルカ18章18−23節の「富める青年の話」にあるこの聖句は、義について誤解している若者がイエスに向かって語った言葉です。彼は、裕福な「役人」でした(ルカ18・18)。

 この「役人」の原語αρχωνは、ruler, commander, chief, leader つまり、支配者とか指導者、長という意味です。青年であるにもかかわらず、このような指導者の立場についていることから、彼は人格者でもあったと考えられます。(*)

 さて、彼は、イエスのことを「良い方または教師」と呼んでいます。この「良い(αγαθε)」という言葉は、神だけに使われる特別な言葉ではなく、「素晴らしい」「卓越した」「立派な」という意味で使われていた日常用語でした。しかし、イエスは、この言葉の使い方に注文をつけます。「なぜわたしを『良い』と言うのか。良い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」

 なぜイエスはこのように、些細なことにこだわったのでしょうか。それは、彼の問題と関係していたからです。

 私たちも、普通に使っている言葉でも、ある特別な人が使った場合、こだわることがあります。「すぐに」という言葉は、普通よく使われる言葉ですが、なかなか借金を返してくれない人が、「すぐに、お返しします。」と言ったら、「あなた、すぐに、すぐに、って言って、もう3カ月もたっているじゃないですか。」と言われます。

 この青年の場合、「良い」という言葉を、非常に安易に使っていました。それには、彼の「義」についての考えが相対的だったからです。それは次の問答から明らかです。

「永遠のいのちを得るには何をすべきでしょうか。」「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

 彼は、自分がこの戒めを守ってきたと考えていたのです。彼は、神の高い義の基準に到達することができた、と考えていたのです。そこで、イエスは、彼の一番弱い部分をつきます。

 「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると、彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。


 イエスは、彼の一番の弱点を突くことによって、彼の間違った「義」の考えを正そうとされました。つまり、「あなたは自分が義人であると考えているかもしれないが、自分の財産を神よりも大切にしているので、あなたはとても、永遠のいのちに到達することはできない。」

 当時、ユダヤ人は、金持ちは神の祝福であり、貧乏は神ののろいであると考えていましたので、金持ちであり、なおかつ、若くして民衆のリーダーとなっていたこの青年は、自分が人よりも永遠のいのちに近いと思っていました。しかし、神の義の基準は絶対です。つまり、永遠のいのちを受けるためには、完全に戒めを守りとおさなければならないのです。彼の「良い」という言葉に現れた、相対的義人観は、イエスによって否定されたのです。

 この記事の前には、悔い改めて心を低くしている取税人が救われて、自分は立派な人間であると考えていたパリサイ人が拒まれる話(18:9−14)、幼子のように自分を低くしないと御国に入れないという話(15−17)がありますので、文脈から考えても、この富める青年の話は、義を積み重ねて救われるのではなく、心を低くすることによって救われることについて教えている箇所であると考えられます。

 したがって、この箇所において、イエスが「なぜ私を『良い方』と言うのか。良い方は神お一人のほかない。」と述べたのは、ご自分の神性を否定する目的からではなく、相手の知識を一時受け入れて(つまり、相手はイエスを神ではないと考えていた(**)ので、その認識を一応土台として)、相手の考え方を否定されたからです。

 つまり、「あなたは、私のことを神だとは認めていないが、神だと認めていない者に向かって、『良い』などという形容詞を安易に使うことは止めなさい。『良い』という状態は、あなたが考えているような低いレベルのものではなく、完全な義を得た場合にしかありえないのだ。」と述べられたのです。



(*)何人かの注解者たちは、彼が会堂管理者ではなかったかと考えています。会堂管理者とは、シナゴーグ(ユダヤ人の礼拝所)のリーダーで、ユダヤ人の宗教生活において大きな影響を持つ要職でした。

(**)キリストの神性の認識は、ペテロの告白「あなたは生ける神の御子キリストです。」(マタイ16・16)までなかった。なぜならば、イエスは、彼らにこう尋ねているからです。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」(マタイ16・13−14)つまり、弟子たち以外は、イエスを神だとは認めていなかったのです。






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