R・J・ラッシュドゥーニー
R・J・ラッシュドゥーニーは、日本人にとって馴染みのない名前である。
クリスチャンの間でもほとんど知られていないだろう。
彼の著作に出会ったのは、今から15年前1986年のことである。
神学生だった私は、アメリカのクリスチャン学生のキャンプに参加するために、フロリダ州のパナマシティービーチを訪れていた。
日曜日にキャンプの近くにある教会の礼拝に出席した後、教会内の書店に入ると、2冊の分厚い本に目がとまった。
それは、彼の「聖書律法綱要」と「法と社会」であった。
これらの本との出会いは、私の運命を決定的に変えた。
私は、それまで旧約聖書の律法がなぜ教会において語られないのか不思議に思っていた。旧約聖書は、すべて霊感を受けた神の御言葉であるはずだ。それなのに、なぜ律法だけが無視されているのだろうか。
また、私は、大学のゼミで、現代の世界を導く哲学的な原理がすべて死んでしまったことを学んだ。近代のヒューマニズム哲学は、近代国家の迷走、ソ連や中国の実験において完全に失敗したことが明らかであり、現在、有効な代替案はないという。
そのころ、ちょうどヴァン・ティルの前提主義を友人から紹介され、人間理性から出発する思想には限界があることを学んでいた。そうだ、彼が言うように、聖書啓示から離れたために、人間は現在行き詰まっているのではないだろうか。それでは、聖書啓示に基づく社会思想を確立する必要があるのではないだろうか、と思い至ったのである。社会の仕組みや規範について記してある聖書律法に解答があるのではないか、と。
そこで私は、聖書律法について学ぶことにしたが、ちょうどよい参考書がなかった。聖書の注解書は、どれも一節一節を解説するだけであり、聖書律法を貫く原理については教えてくれなかった。
まだ、献身をして教職につく重荷を与えられていなかったので、この課題を残したまま大学を卒業し、普通の就職をした。しかし、ここで私は大きなチャレンジを与えられたのである。
会社からソ連に派遣され、そこにおいて無神論に基づいて築き上げられた社会をつぶさに見ることができたのである。労働者の天国であるはずの社会は、秘密警察と密告と盗聴の世界であった。誰も外国人である我々に近づいてくる者はいなかった。それは、教会においてもそうだった。近づいてくるのは、みなKGBの回し者か、会社が入っているビルのロビーに集まる売春婦であった。一般の市民は密告を恐れて、話しをしようとしない。いつも頭の上に暗い雲がかかっているような陰鬱な世界、これがヒューマニズムが求めた理想郷なのか。神などいらない、人間だけでやっていける!と叫んだ人々が作った社会とは、自由と人間性を抑圧する不自然な世界であった。
「ヒューマニズムは非宗教であるなどという考えが成り立たないことはソ連が証明している。ヒューマニズムは、人間に並ぶ権力を絶対に許さない非寛容の宗教なのである」という印象を胸に日本に帰国したのであった。
帰国した後も聖書律法に基づく社会建設という課題は私の頭を占領していた。自分の使命は会社の仕事にはない、やはり自分はこの研究以外にはないという思いが強くなり、退職し、神学校に入ることにした。神学校での学びはどれもこれも有意義なものであった。自分の問題意識はますます鮮明になっていった。
2年生の時に、アメリカのクリスチャン大学生のキャンプに行かないかと誘われて、夏休みを利用して参加することにした。
そこで、先ほど述べたような出会いがあったのである。
聖書律法についての本だということは分かったが、このテーマにありがちな十戒についての大雑把な解説書に過ぎないだろうと考えていた。しかし、卒業論文を書くときに開いてみて驚いたのである。
それは、私がずっと求めていた聖書律法の判例法についての解説書だったのである。それは、聖書律法についての字義的な解釈ではなく、それを貫く原理について解説してある書物だったのである。
ラッシュドゥーニーの問題意識と私のそれとは完全に一致していた。
私は、彼の本をむさぼるように読んだ。
しかも、神学校入学の時に先輩の牧師からプレゼントされた書物も同じころに開いてみたのだが、まったく驚いてしまった。それも、まったく同じテーマについて扱っていたのである。それは、グレッグ・バーンセンの「キリスト教倫理における神の律法」という本であった。後でわかったことは、これもキリスト教再建主義の著作だということである。
私の手には、偶然にも3冊の再建主義の主要著作が揃ったのである。
ラッシュドゥーニーの「聖書律法綱要」は、ヴァン・ティルの前提主義に基づいて、「この世界に存在するあらゆるものは、神の御言葉によって統治されなければならない」と主張していた。
ヴァン・ティルは、原理だけを示したが、では具体的にどのような方法があるかは明示しなかった。ヴァン・ティルだけではだめなのである。オランダの神学者ドーイウェールトが築き上げた体系は、自然理性を許容するものであり、聖書にのみ立つという原理においてあいまいである。やはり、ラッシュドゥーニーが登場しなければならないのである。
ラッシュドゥーニーは、聖書律法を今日の世界に適用する方法について明確な意見を持っていた。
クリスチャンに明確な社会観がないために、クリスチャンは、世俗のヒューマニズムの学問に影響されて、聖書から首尾一貫して考えることができなかった。聖書は教会と個人的な生活だけのものであり、社会的な問題についてはヒューマニストの考えを受け入れる以外にはないという諦めがあった。しかし、ヒューマニストの考えの根底には、「この世界は神と無関係であり、神ぬきでも成立する」という原理があるため、クリスチャンはどうしてもそのような原理から生まれた学問を自己矛盾なく受け入れることができないのである。
もし受け入れることができるなら、それはクリスチャンであることを本質の部分において否定しているのである。だから、これまでクリスチャンは勉強すればするほど、不信仰になったのである。ヒューマニストの学界に受け入れられるためには、クリスチャンは根底において神を否定せざるを得なかったのである。
しかし、もともと、現在世界を支配している文明はキリスト教文明なのである。高等教育機関も初頭教育機関ももともとキリスト教の教育機関として生まれたものなのである。
キリスト教の遺産の上に成り立つ科学や教育が、その遺産を否定しているという状況が現在の社会である。現代ヒューマニズムは、キリスト教に対するアンチテーゼとして生まれた。そして、神を否定して人間だけでやっていこうとした試みはすべて失敗に終わったのである。
新しい時代が来ようとしている。それは、キリスト教文明が本来あるべき姿に帰ることによって実現するのである。ラッシュドゥーニーは、この壮大な改革の基礎を築いた偉大な思想家である。
未来において、彼の業績は正しく評価されるようになるだろう。そして、もはや彼の名は一部のクリスチャンに知られるマイナーな思想家ではなく、新しい時代を切り開いた改革者として全世界の人々に知られるようになるだろう。