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近代科学とキリスト教

 

 

A氏:ガリレオとカトリック教会との闘争に象徴されるように、キリスト教が表層的には科学的認識と対立し、闘争する局面が皮相的に強調されるようですが、根源的にはキリスト教の基本的性格が、自然の探求及び解明を可能にしたと考えるべきなのではないでしょうか。

B氏:近代科学がキリスト教と対立したのは、表面的だけであったなどと、どうして言えましょう。ガリレオの場合であれ、ダーウィンの場合であれ、対立は根本的な世界観や人間観に於いてであったのに、どうしてそれは「表面的」だったと言えるのですか?キリスト教が間違っていたなんて認めたくない貴方のお気持ちからは、そう仰りたいのは分かりますが、ローマ法王庁がガリレオ裁判の非を認め、ダーウィンの説を公認したのは、最近ではありませんか? それまで頑なに認めようとしなかった事実は、それを根本的に受け入れたくなかったからじゃありませんか?

 

 近代科学の主要な要素は、ギリシャなどの非キリスト教文明から生まれたことは事実だと思います。

 しかし、ガリレオの裁判などがキリスト教と科学の対立を表すこととか、キリスト教が近代科学において些末な役割しか演じなかったとするのは史実ではないと考えることをまず申し述べます。

 

 具体的に、その理由を述べていきます。

 

 中世のカトリック教会の主要神学は、スコラ神学でした。そして、スコラ学はアリストテレスの自然観によって支配されていた。それで、当時のスコラ学者は、演繹論者であって、アリストテレスかく語りき、と言えば、それがあたかも絶対であるかのようにされていたわけです。

 当時、天文学は、アリストテレスの物理学にしたがって、自然の状態においては円運動ではなく、宇宙の中心に向かう直線運動をすると考えられていました。だから、地球が自転しつつ、太陽の周りを公転しているなどというコペルニクスの学説は当時の権威に反逆することになった。

 カルヴァンは、コペルニクス個人について言及したことはないが、説教の中で一回だけ、反コペルニクスともとれる発言を行っている。カルヴァンは、もともと古典学者であったこともあって、かなりギリシャローマの古典に対して理解があったのですが、だからといって、当時のスコラ学者のように、アリストテレスとプトレマイオスの宇宙観を押しつけ、演繹論によってコペルニクスの天文学を排撃するようなことはしなかった(一般に排撃したように言われているが、それを示す文献は存在しない)。

 彼は、次のように言っています。

 「哲学者(ギリシャローマ古典時代の学者)たちも、自然の秘密についての緻密な瞑想において、また精巧な叙述において、盲目であったと言えるであろうか。論述の方法を確立し、理性にもとづいて語ることをわれわれに教えた人たちが理解力をもっていなかったと言えるであろうか。」

 また、次のようにも言っています。

 「天文学その他難解な学芸について学びたい者は、(聖書以外の)他のものととりくみなさい。」

 

 このように、彼は、聖書や形而上学を科学的知識の獲得の手段とすることを明確に否んだのです。

 

 さて、近代になって、このようなアリストテレス的な学問が批判され、実証的、帰納的方法による科学の探求が求められるようになったのですが、その中心にいたのはプロテスタントたち、及び、プロテスタンティズムの影響を受けた人々であった。

 

 近代科学の方法論の確立者であるF・ベーコンは、フランス人のユグノーとして著名なベルナール・パリシーを通じてカルヴァンの影響を受けていた。著書において、彼は、聖書を魂に関する知識の源泉とし、自然を神の被造世界の知識を得る源泉として描き、人間は神によって地を従えるために創造されたというカルヴァン主義の「文化命令」の教義を述べている。

 

 コペルニクスもクリスチャンであり、ガリレオは彼の地動説の影響を受け、カトリック教会から裁判にかけられるわけで、科学対キリスト教という単純な図式があるわけではない。

 

 ケプラーは、その師、ミヒャエル・メストリン同様、徹底したコペルニクス主義者であり、彼がガリレオに宛てた手紙にはカルヴァンの影響が色濃く出ていた(C.Baumgardt, Johannes Kepler, Life and Letters, London 1951)。

 

 アルフォンス・ドゥ・キャンドルは、『科学と科学者の歴史』(1885)の中で、ヨーロッパの過去二百年の科学者は圧倒的にプロテスタント信仰を背景にしていたと述べている。ブラッセル自由大学のジャン・ペルスネア教授は、16世紀の南部ネーデルランド(ベルギー)でも、当時の科学者の大部分が、十万ほどしかいなかったプロテスタントのなかから輩出したことを証明した。アメリカの社会学者ロバート・K・マートンは、1938年に、1663年にイギリス王立学会を創立した人々の65パーセントが人口のごく一部を占めるピューリタンの信仰に立つことの意味を解明した。S・M・メイソンは、これら研究をふまえ、『科学の歴史・上』で、「近世ヨーロッパの大科学者のなかで、プロテスタントがカトリックを凌駕していることには、三つの主なる原因があげられるであろう。第一は、初期プロテスタントの心性と科学的態度との類縁、第二に、宗教的目的達成のための科学の使用、第三に、プロテスタント神学の宇宙的価値と初期の近代科学のそれとの一致である」とした。

 

 哲学者下村寅太郎は、精密科学の理念の精神史を追い、その『近代の科学的心情とプロテスタンティズム』において次のように述べている。

 「近代科学が特に西欧的所産である限りキリスト教との関連を無視することはできない。」また、「結果に於ては近代の科学も確に宗教から独立の他者であるが、歴史的には、特に精神史的には、本来的に対立的なものとしてではなく、寧ろ共同の精神の所産であり、共同の源泉からの分化である」「精密性の追究に於る真摯執拗な、殆ど厳粛ともいふべき態度、更に何よりも、かかる仕事を trivial とせず、当然として、義務として厭はない心情は抑々何によるのであろうか。・・・『(科学的研究は)もし神の法則や属性の明証を与へるものでないならば内面的価値のないものである』と言ったのはニュートンである。・・・科学者のこれら性格的な心情の由来(は)、近代の、寧ろ近代的な、宗教意識−−プロテスタント的心情以外に認め難いやうに思はれる」と述べ、さらに、「我々の問題に対して直接手掛かりとなるプロテスタント的精神はルターのそれよりもカルヴィニズムのそれである」と言う。

 

 近代科学の成立にいかにカルヴィニズムの精神が関与しているかについて、さらに次のように述べている。

 

「カルヴィニズムが直接に我々の問題と結びつくことは・・・カルヴィンの神学思想そのものの中に理由がある。・・・プロテスタントの神学思想の根本原理は、宗教生活と人間の魂の救いに関する一切のものに於ける人間の絶対的な神のみへの依存にある。しかし、特にカルヴィニズムの神学の特色となるものは、この神との結合を宇宙論的規模に於いて徹底せしめた所にある。ここにカルヴィニズムの自然に対する積極的関心の通路と動機とが認められる」。そして、具体的に、17世紀オランダの大学における科学研究に触れてから、「ライデンでもユトレヒトでも教授も学生もカルヴィニズムたることが要求された。即ち、・・・積極的な言い方をすれば、カルヴィニズムの立場から、或いはカルヴィニズムを通して、近代科学が営まれていたということである。近代科学は必ずしも宗教から独立し宗教に対立することに於いて成立したのではないということである」とする。

 

 資本主義社会の生成と技術の発展においてカルヴィニズムがいかに中心的な役割を果たしたかについて述べたマックス・ウェーバーを待つまでもなく、このように、キリスト教が近代科学の発展において主要な動因であったことを否定することはできないでしょう。

 

 

 さて、それでは、何故キリスト教は、科学の発展を可能にしたのであろうか。主な理由を挙げる。

 

(1)直線的発展史観

 

 キリスト教(とくにカルヴィニズム)は、神の国は歴史を通じて拡大するという直線史観を持っている。直線史観は、循環史観の宿命論を排除し、未来に向かって前進し、知識や労働の成果を蓄積することを薦める。

 

 あの著名な科学史家スタンリー・ジャキは、中国、インド、ギリシャ、バビロニア、マヤ、アラブの循環的歴史観をキリスト教の直線的歴史観と比較し、なぜ、キリスト教西洋において科学が発展したかという疑問に自答して、次のように述べています。

 

 「言うまでもなく、様々な古代文明においてなぜ科学が死滅してしまったのか、多くの(地理的・社会的・経済的・政治的)要因があるだろう。しかし、これらのすべてに共通しているのは、循環的世界観に対するこだわりである。」(Stanley Jaki, The History of Science and the Idea of an Oscillating Universe, in Wolfgang Yourgrau and Allen D. Breck (eds.), Cosmology, History, and Theology (NY: Plenum Press, 1977), p. 140n.

 

 この直線史観は、歴史の発展を信じる。

 

 諦観が支配的な歴史観を持つ文化において科学の発展とその継続を期待することは難しい。

 カルヴィニズムは、神の国が発展するのは神の予定によってすでに決定されているとする。

 人間は、その発展のために労働するが、その労働はけっして無駄にならず、必ず利益を生むとする。

 

つづく