科学はキリスト教の唯一神教の元でしか長期的な発展は望めない
科学はキリスト教の唯一神教の元でしか長期的な発展は望めない。
(1)多神教の場合、「宇宙には様々な主権者が存在する」とするので、「宇宙には様々な法則が支配している」ということになる。例えば、日本には日本の神がいてその日本の神の定めた法則が適用されるが、アメリカや中国では適用されない。こうなると、科学が法則を発見しても無意味である。どこでその法則が否定されるか予測不可能になるので、科学的研究が重要視されることはない。
(2)汎神論の場合、万物はそれぞれ神の一部であり、その本体は霊であるとし、自然を神話的に解釈するので科学は長期的に発展できない。物理的な運動をも霊的な次元で解釈したり、科学が触れてはいけない神聖な領域を作るため、自然を実証的に研究することは不可能である。(*)
(3)唯物論の場合、万物は人格的な計画なしで成立していると考えるので、世界はアトム化され、「法則が普遍的に適用される」ことを前提に成立する科学に思想的な基礎を提供できない。つまり、アプリオリに個物と個物を結び合わせる絆は存在しないとするので、それらが結び合わされているのは単なる偶然でしかなく、例えば、リンゴの実が人間の味覚に適っているというのはたまたまそうであったということでしかないということになる。それぞれ独立して成立した個物と個物を結び合わせるものが、偶然でしかないとすれば、それを法則によって結び合わせることにいかなる正当性も与えることはできない。もし与えるとしても、それは「人間の恣意」に過ぎない。
(4)聖書的キリスト教の場合、万物は人格的な唯一絶対者によって創造されたと考えるので、宇宙は同一の法によって統一され、科学に思想的な基盤を提供できる。また、物体の本質・実体が霊であるとは考えないので、自然を非神話的に解釈でき、実証的な研究が可能である。個物と個物は神の創造という文脈によって結び合わせることができるので、物体と物体の関係を合法的に結びつけることが可能である。科学法則は、個物と個物を結びつけることにおいて何ら不法なことをしているわけではない。
(*)中世のキリスト教は、(2)の世界観を持っていた。「神」よりも前に空間と時間が存在し、神の創造はこの枠組みの中において行われた「付加物」でしかない。それゆえ、この「神」は絶対者ではなく、神が権威とならない領域があるとした。
万物の本体は形相であり、この形相がそれぞれ独自に自分の目的に向かって運動しているとした。それゆえ、ヨーロッパにおいて科学が発達するには、カルヴァンの「非神話化」を必要としたのである。