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初代教会に帰れ? など



(Q)初代教会に戻ることが自分たちの理想であると考える教会がありますが、いかがお考えですか。

(A)まず、初代教会が問題のない教会だったと考えているなら、その前提に問題があります。パウロは、様々な教会の問題を取り扱っています。コリントの教会には、姦淫を犯して悔い改めない信者がいました。ガラテヤの教会には、律法主義[つまり、律法によって救われるとする行為義認の謬説]が入っていました。ラオデキヤの教会は、富に目がくらんで信仰が生ぬるくなっていまいた。その他にも、初代キリスト教会は、様々な問題をかかえていました。

 次に、初代教会の状態に帰ることは、二千年の間に神が教会を教えてこられた真理を否定することになります。キリスト教会は、二千年の歴史の中で、神から訓練されて、様々な真理を聖書から学んできました。初代教会において、三位一体の教理は確立されていませんでした。キリストの二性一人格の教え、人間や組織に神性を与え、無謬であるとする教皇主義の謬説について・・・。教会は、敵との闘いの中で、聖書に隠されている真理を学びとってきたのです。ですから、こういった経験を無視することは、自分がもう一度同じ過ちを犯すことになるのです。

 ある人が、研究室にこもって、水の化学構造を研究して、学会で発表したとします。「私は水が、酸素と水素から成り立っていることを発見しました!!」その人は、「あなた、顔を洗ってまたおいでなさい。」と言われるだけです。学問には、積み重ねがあるのです。科学を研究する人々は、過去の研究史を調べ、どこまで分かっていてどこから分かっていないのかをまず知らなければなりません。そうでなければ、どんなに頑張ってもその人の研究は無駄になってしまいます(自分の勉強にはなると思いますが)。

 同じように、過去の教会を理想として、そこに帰れ、というのは、単なるセンチメンタリズムであって、実質的には何の意味もありません。教会は、教会史を熱心に勉強しなければならないのです。それを通して、現在どこに問題があって、どこを改善したらよいのかを深く考えなければなりません。そのような教会は、たとえどんなに熱心であっても、的外れな闘いをすることになります。

「熱心なだけで知識のないのはよくない。」(箴言19・2)


(Q)神の癒しだけでやるんだ、医者になどかかるのは不信仰だ、というクリスチャンがいますが。

(A)これは、信仰と労働との調和がとれていない教えです。神は、6日働いて、1日休めと言われました。つまり、人間のこの地上における活動は、神だけの働きによるものでもなく、また、人間だけの働きによるのでもありません。もちろん、救いについては神だけの働きによります。しかし、救われた者が、地上を歩むのは、神の助けを受けつつ、自分の手による労働を通じて行われるべきなのです。ですから、神癒にのみ頼り、医療を拒否することは、人間に与えられた労働の使命を無視する教えです。また、医学だけに頼って、神の治癒を否定することも無神論的態度です。クリスチャンはこのどちらの極端も排除すべきです。

 人間は、自然界を調べて、科学を発達させるべきです。科学の歴史、研究の成果をすべて否定することは、信仰的傲慢であり、神秘主義に陥ります。


(Q)現代に使徒職があると言う教会があります。

(A)現在でも使徒がいると考えている教会があります。聖書を読むと、使徒は、アポストロス、つまり、使わされた者という意味です。イエスは使徒を任命して、彼らを御自身の御業の証人とされ、彼らをイエスの御業の目撃者として世界に派遣されました。  イエスは、奇跡や様々な御業を行った時に、必ず将来使徒となる人々を連れて、御業の目撃者とさせました。そして、「彼らは使徒であり、私の御業の証人であるから、彼らに聞き従いなさい。」と言われました。ユダに代わる使徒を選ぶ時にも、「使徒たちと行動を共にして、主の御業を目撃した者」という条件がつけられました(使徒1・22)。

 律法にもあるように、真理が明らかにされるためには、二人または三人の証人が必要とされたのです。そこで、新約聖書の聖典性は、それが使徒及び使徒と行動を共にした目撃者によるものであるかどうかが必須条件とされたのです。ですから、私たちが聖書啓示を強調するのは、聖書がイエスの御業の目撃者として正式に任命された証人によって書かれたからです。それゆえ、これ以外に絶対的真理として信頼できるものはないと結論できるのです。


(Q)聖書啓示以外の、直接啓示は今日でもあるのでしょうか。

(A)もし、直接啓示を教会の基礎としているならば、大きな問題です。聖書啓示に並べて、新しい人間的権威を据えているからです。ある教会では、そのトップが満州において、ロゴスという文字が口から入って腹に下った、という体験を土台に形成されています。このような教会は、個人崇拝に陥ります。

 ただし、クリスチャンが様々な体験をすることはあるのではないでしょうか。主の臨在を感じることはすべてのクリスチャンが体験することですし、ある特別な環境のもとで、突然神の臨在を覚えることもあります。(*)

 聖書において、クリスチャンは幻視を見ない、啓示が完結した今はそのようなことはけっして起こらないという箇所はないと思います。神は、様々な方法で、クリスチャンに教えることがあります。ただし、同じ聖霊の働きなのですから、けっして御言葉に反する示しは与えられないはずです。

 ある体験をして、その体験が絶対に誤りのない神からの体験であると主張することはできません。聖書に並ぶ新しい啓示が存在すると主張することはできません。しかし、個々人のそれぞれのニーズに合わせて神様は多くの奇跡を現在でも行って下さるのではないでしょうか。現在、聖書が十分に普及していない中国の教会において様々な奇跡が起こっています。ソ連のクリスチャンもそのような不思議なことをたくさん証ししていました。

 いわゆる一部のウルトラカルヴァン主義者は、あまりにも神様の働きを教理の枠のなかにはめ込みすぎるのではないかと思います。教理はあくまでも、神様の啓示を方向付ける働きしかしないのであって、神様の御業の多様性について、あらゆることがらをカバーすることは不可能です。無理矢理教理の枠組みの中に入れることは、新しい教皇主義をもたらすことであり、いわゆる、あるウルトラカルヴァン主義者が述べた、「ホッジの注解書を読まなければローマ書は分からない。」といった類の傲慢かつ自己満足の世界に入っていくように思われます。

 聖書において明らかに主張されていることについて、枠組みというものは認めなければなりません。例えば、三位一体は狭すぎる教理だ、とは言えません。なぜならば、聖書は明らかに父子御霊の三つの人格が存在すると語っているからです。しかし、クリスチャンは啓示が完結した現在は絶対に幻視も、直接啓示も存在しないとはどこにも記されていないのです。

 最近考えていることは、これからクリスチャンの文化を創造するに当たって、クリスチャンリコンストラクション(キリスト教再建主義)は、アリストテレス的中世の教条主義に陥ってはならない、ということです。中世は、あまりにも演繹的思惟に偏り過ぎました。教皇主義の教理によって、帰納的に導きだされた科学的真理を封じ込めました。ですから、もし、クリスチャンリコンストラクションに対して、人々に「もし、聖書があらゆるものの判断基準にならなければならないとしたら、また中世の演繹的教条主義主義的不自由を押しつけられるのではないか。」との危惧を抱かせないために、私は、演繹的思惟(聖書を万物の解釈の基準にすること)と帰納的思惟(実験と観察に基づく真理の発見方法)を調和させる必要があるのではないかと考えています。そのためには、どこまでが聖書において啓示されていて、どこまでが聖書において啓示されていないかを明確に峻別する努力の継続が欠かせないと思います。

 あくまでも、私たちが持っている教理は、神の御業の一部しかカバーできないのだという謙虚な姿勢がなければ、いかにクリスチャンの政府ができたとしても、様々な活動を一部の権力をにぎったクリスチャンの判断で、異端扱いしていき、第2のソ連・中国を作る危険性があると思います。

 これまでの教理の枠組みに当てはまらない新しい現象が出てきたときに、それを自分たちの考えに合わないのではねつけるのではなく、それらについてよく聖書を調べ、自分たちの神学に問題があったのではないかと考えることも肝要かと思います。


(*)私の例ですが、先日長崎に原爆資料館を訪問するために行きました。その時に、進路や様々な問題について解答を求めていました。観光バスに乗ったときに、「自分を捨てよ。」という御言葉が脳裏に閃き、「ああ、これだ。これだ。」という気持ちになりました。そして、町を一巡して戻ってきたときに、26聖人の殉教の碑に行こうと思いました。西坂という場所まで徒歩で、行ったのですが、その広場に入ったとたんに何か聖い雰囲気に圧倒されました。そして、26聖人の碑の前に立ったときに、愕然としたのです。片耳を切り落とされた大人や子供26人が手を合わせて天を見上げながら並んで立っているレリーフの下に、こう書いてあったのです。

「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、私についてきなさい。」

 涙がとめどもなく流れてきました。そうか、このことを学ぶためにここにやってきたのだ。と思いました。





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